聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

ポッドキャスト 日々新しく#03 休んでも良い

ポッドキャスト において10分ほどの音声メッセージを毎日配信しています。

興味のある方はこちらのリンクからどうぞ。

Love Joy Peace Church キリスト教会: 日々新しく#03 20年8月12日 on Apple Podcasts

 

こちらでは音声メッセージの原稿をそのまま掲載させていただきます。

 

 

早速今日のメッセージですが、まず今日の聖書の1節を紹介したいと思います。

マタイ11章28節 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

今日はこの1節から、休んでも良いというテーマでお話ししていきます。


私の好きな賛美歌の1節をまずシェアしようと思います。人生の海の嵐にというタイトルですが、こういう歌詞です。人生の海の嵐に、もまれきしこの身も、不思議なる神の手により命拾いしぬ、いとしずけき港につき我は今やすろう、救い主イエスの手にある身はいともやすし。という歌詞です。1曲歌いたくなる気分でありますが、今日はやめておこうと思います。私の大好きな讃美歌の一つです。

 

この讃美歌の好きなことは、もちろんメロディーも素晴らしいのですが、やはり歌詞にあると言えます。まさしくその通りで、私たちの人生には海の嵐に似たような状況ということが起こるのではないでしょうか。もちろん海ということをイメージする時に、穏やかで、のどかで、静かで、優しくて、癒されるというイメージがあると思います。
しかしある人にとっては、そのイメージが激しい階段を登り下りしているかのような、まさしく嵐の中にある海というイメージを想像するのではないかと思うのです。先ほど紹介した讃美歌の作者は後者の方をイメージしていて、そしてそれを私たちの人生に照らし合わせているということです。

 

確かにそう思います。皆様も自分自身の人生を振り返ってみるときに、穏やかで、のどかで、静かで、優しくて、癒されるという場面だけを通ってきましたという人はいないのではないでしょうか。多くの場合において、嵐の中を通ってきたかのような激しい階段を登ったり降りたりという、そんな忙しい人生を歩んできたのではないでしょうか。

 

私には1歳半になる息子がいるのですが、彼はまだこの世界に誕生して1年半しか経っていません。しかし彼の1年半の人生を振り返る時に、まさしく山あり谷ありの人生だなと思わされます。ある時は笑ったり、ある時は激しく泣き叫んだりということです。ある時には公園の滑り台で遊びながら最高の笑顔を見せる時があります。ところがある時は椅子の上から落ちて頭を打って激しく泣き叫ぶことがあります。ある時は自分の好きなテレビを見ながら喜んでいます。ある時は風邪を引き熱を出し苦しみの中に置かれる時があります。わずか1年半の人生でありますが、実に移り変わりの激しい人生と言えるのです。まさに海の嵐のような人生であり、激しい階段を登ったり降りたり、降りたりというよりも落ちたりと言えるかもしれません。

 

つい最近日本においてとても有名な俳優さんが自ら命を絶ってしまうという痛ましい出来事が起こりました。その原因については本当のところは本人にしかわからないことでありますが、推測するに疲れ果てていたのかな、息詰まっていたのかな、まさしく人生の海の嵐の中でもまれにもまれて、あまりにも重い荷物を背負い過ぎて、プレッシャーに耐えることができずに、最悪と思える選択をしてしまったのかなということです。とても残念なことであると言えます。

 

ある方のYouTube動画を見ていたら、この悲しい出来事に対して意見を述べていたのですが、少しその意見についてシェアしたいと思います。その方が言うのに、その方は世界中を回って世界の状況を見てきた方でありますが、世界を見てきて明らかに違う部分があって、それは日本という国は失敗することをあまり許さない国なのかなということです。完璧主義ということです。失敗してはならない、間違ってはならないということです。


それを聞いて本当にそうだなと思います。私自身も子供の頃親から何度も繰り返して言われてきたことが、人様に迷惑をかけないようにということでした。もちろんこれは正しいことです。人様に迷惑をかけることなく生きれたら素晴らしいです。しかし時にはこうも思うのです。迷惑をかけてもいいではないか。いや迷惑をかけてしまうということも起こり得るのではないか。

 

この世界に生きる人間の中で、完全完璧な人がどこにいるのでしょうか。人様に一切迷惑をかけることなく生きることができる人がどこにいるでしょうか。もしかしたら中にはそういう人もいるかもしれません。しかし今日はっきりと申し上げれば、それは自分だけがそう思っているだけであって、自分の気づかないところで誰かを苦しめ、傷つけ、迷惑をかけているということは間違い無くあるということです。

 

何故そう言えるのでしょうか。人間の中で完全で完璧な存在は一人としていないからです。人間という存在は、完全ではないのです。完璧ではないのです。間違えることがあるのです。失敗することがあるです。人に迷惑をかけてしまうような事があるのです。しかし日本の雰囲気の中に、いや日本だけがそうではないでしょう。世界中どこでもそれが許されないという状況があると思います。失敗してはならない、間違ってはならない、休んではならない、弱音を吐いてはいけない、できないと素直に言ってはならない、人様に迷惑をかけてはならないからだということです。これがある意味この世の中に流れている価値観であるかと思います。そしてこのような価値観こそが、私たちの人生を海の嵐のようにしてしまっているのではないかと言えるのです。

 

では今日私たちが最後に考えることは、聖書の価値観ではどうであるのかということです。聖書はどう教えているだろうか。今日はじめに読んだ聖書の1節をもう一度読んでみます。

マタイ11章28節 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。これが聖書の価値観です。

 

聖書は休みなさいと教えます。疲れているならば、重荷を負っているならば、そのことを正直に告白するようにと教えています。それによって人様に迷惑をかけてしまうことがあるでしょう。しかしそれでも良いのです。私たちの信じる神様が、イエス様が、そのことも含めて全てにおいて必ず助けてくださる、守ってくださるということです。そうです。私たちにとっての最高の休み場とは、イエスキリストにあるのです。

 

今日疲れている方がいますか。重荷を負って苦労している方はいますか。いと静けき港である、イエスキリストの中に逃げ込みましょう。逃げ込んで良いのです。助けを求めて良いのです。休んでも良いのです。