聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

私達の関心事はどのようなものか

今日の聖書黙想 21年3月5日

聖書箇所 マタイ20章17〜34節

 

まず今日の聖書箇所は、

エス様がご自身のこれから起こることについて、

そのことを詳細に語っておられます。

 

・祭司長たちや律法学者たちに引き渡される

・彼らはイエスを死刑に定める

・異邦人の手に引き渡される

・嘲られ、むちで打たれる

・十字架につけられる

・しかしその後三日目によみがえる

 

この内容というのは、

実はイエス様がこの地上に来られた、

メインとなる目的でありました。

 

エス様が来られたのは、

全人類の救いの完成を成し遂げるためです。

そのためには十字架の死と、

その後のよみがえりが重要となるのです。

 

すなわちイエス様とは、

十字架で死なれるために来られたのです。

しかし死なれたイエス様は三日目によみがえるのです。

 

私達の信仰の中心はここにあります。

 

エスキリストの十字架の死と復活です。

 

これがなければ私達の信仰の中身はありません。

信仰の中心は十字架と復活にあるということです。

 

ここでイエス様が改めて弟子たちだけを呼び寄せて、

この重要なことについて語られたということです。

 

しかし問題は何かというと、

弟子たちはこのことに全く関心を示すことはありませんでした。

 

この時の弟子たちの関心は何であったのか。

誰が一番偉いのか、

誰が一番地位が高いのか、

という関心であったということです。

 

エス様の右と左に座す者は誰か。

これが弟子たちの関心事でありました。

 

エス様の十字架の死とか復活とか、

とても重要な話をされている中で、

弟子たちは全く別のことを考えていたのです。

 

ここから今日私達に教えられることは、

私達の関心はどこにあるのかということです。

 

私達が現在関心を持っていることは、

父なる神様の御心と繋がっているか、

神様の関心と一つになっているのかです。

 

すなわち私達の関心事が、

焦点が自分に向けられているものか、

それとも神様に向けられているものか、

それを考える必要があるということです。

 

弟子たちの関心事は、

単に自分に焦点を向けているものです。

誰が一番偉いのか、

誰が一番高い地位にあるのか、

自分の欲を満たすための関心事であります。

 

しかしイエス様がここで語られた重要なことは、

天の父なる神様の御心を成すという関心事です。

十字架の死と復活は父なる神様の御心であります。

そこにイエス様はいつも焦点を当てていたのです。

 

私達の持っている関心事が、

父なる神様の御心という部分に、

焦点があてられているかということです。

 

食べるにも飲むにも何をするにも、

神の栄光のためにするとパウロは言いました。

 

どんな関心事を持っても大丈夫です。

しかし一つだけ注意をしなければならないことは、

その関心事が主の栄光に繋がるかどうかということです。

神様の喜ばれる関心事であるのかということです。

 

現在私達が持っている関心事が、

神様の栄光のためにどのように用いられますか。

 

単に自分に向けられたものであるならば、

その思いを私達は変えていくことが求められます。

 

生きるも死ぬも主の栄光のため。

食べるも飲むも主の栄光のため。

私達の人生のすべてが、

主の栄光のためであるように、

そのことを願っているのであります。

天の御国のルールは不公平? 今日の聖書黙想

今日の聖書黙想 21年3月4日

マタイ20章1〜16節

 

今日の聖書箇所では、

朝9時から働いた者に対して、

また午後5時から働いた者に対して、

同じ労働賃金が支払われたとあります。

 

当然朝9時から長い時間働いた者にとっては、

心穏やかではいられない不公平極まりないと思える、

状況であったと言えるのです。

 

何故ならば長い時間働いた自分と、

5時から来て僅かの時間働いた者と、

同じ1デナリという金額の支給がなされたからです。

 

労働の時間が終わって賃金が支払われる時に、

まず午後5時から働いた者への支払いが行われました。

みると1デナリの賃金が支払われたということです。

 

朝早くから来た人は当然期待するでしょう。

わずかの時間しか働いていない者が、

1デナリという賃金を受けているのだから、

もっと長い時間働いた自分には、

その分多くの賃金が支払われるだろうと。

 

しかし彼にも同じく1デナリが支払われました。

 

これは不公平だーーーー

と叫ぶたくなる気持ちはわかりますよね。

 

しかし注目をしなければならないことは、

雇い人は朝9時から来た者に対しても、

午後5時から働いた者に対しても、

同じく1デナリという契約を結んでいたのです。

つまり雇い人からすれば契約のとおりに、

賃金の支払いを行ったまででありました。

 

それをわかっていたとしても、

それでも不公平だーーーと

叫ばずにはいられないと思います。

 

もし明日も働く機会があれば、

自分は午前9時から働くという、

そんな愚か者にはならないと決心したでしょう。

午後5時から働く利口な者となるという決心です。

こんな不公平な話はないということです。

 

しかしこれがこの世と天の御国の

価値観の違いであるということです。

 

この世の価値観に置いては、

多く働く者が多くを得るということです。

多くの努力が多くのリターンを得るということです。

 

しかし天の御国の価値観ではそうではないのです。

 

どれだけ多く働きたのか、

もっと言えばどれだけ多くを持っているのか、

どれだけ素晴らしい働きをし業績を残したのか、

どんな地位や名誉を得ているのか

どれだけ人気があり称賛を受ける者であるのか、

 

それらによって報酬が多いか少ないか、

それを決定することではないということです。

 

たとえ周りにいる人々よりも、

持っているものが少ないとしても、

労働時間が足りなかったとしても、

何ができてもできなかったとしても、

 

与えられる報酬は全く同じである

 

これが天の御国の価値観であります。

 

多く持っている人が更に多くを得るという

資本主義的な価値観ではなくて、

持っている人も持っていない人も、

平等に与えられるという価値観こそが、

天の御国の価値観であるということです。

 

この世においては、

圧倒的な努力や作業の結果として、

圧倒的な勝利者となれる仕組みがあります。

 

しかし聖書においてはそうではなく、

エスキリストにある者はただそれだけで、

 

圧倒的な勝利者であると教えているのです。

 

もちろん勝利者の定義の違いがあります。

前者は資産をどれだけ得るかによって、

または有名になるとか権力を得るとか、

それらによる勝利者という定義があると思います。

 

しかし聖書ではこう教えているのです。

 

たとえ全世界を手にしても、

まことのいのちを損じたならば、

それが何になるのだろうか。

 

聖書が教える真の勝利者とは、

まことのいのちを得ることにある

そう教えているのであります。

 

そしてこの真の勝利者となるためには、

誰か特別な人だけがなれるのではなく、

誰でもどんな人でも持っていてもいなくても、

得られるものであると教えているのであります。

 

では最後に、

聖書が教える真の勝利者となるために必要なこと。

 

それは唯一つです。

 

エスキリストを我が救い主として信じることです。

 

ただ唯一これだけを行うことができるならば、

その人は真の勝利者として生きることになるのです。

 

最後に聖書の御言葉を一つ紹介して終わります。

 

 

ローマ人への手紙8章37節

しかし、私達は、私達を愛してくださった方によって、

これらすべてのことの中にあっても、

圧倒的な勝利者となるのです。

 

 

真の勝利者として、

圧倒的な勝利者として、

今日も一日生きることを願っているのです。

誰が救われることができるでしょう 聖書の黙想

今日の聖書黙想 21年3月3日

マタイ19章23〜26節

 

エス様は弟子たちに言われました。

金持ちが天の御国に入るのは難しいと。

更に続けてこうも言われました。

金持ちが神の国に入るよりは、

らくだが針の穴を通るほうが易しいと。

 

金持ちがいかに神の国に入ることが難しいのか、

それを教えている内容であります。

 

それを聞いて弟子たちは驚きました。

それでは、誰が救われることができるでしょうと。

 

もしかしたら当時の常識の中で、

神の国に入る条件の一つとして、

金持ちであることと考えられていたかもしれません。

 

弟子たちもそう考えていたのですから、

エス様の言われたことに驚かれたのです。

金持ちが救われないならば、

それでは誰が救われますかと。

 

エス様は答えます。

それは人にはできないことですが、

神にはどんなことでもできるのですと。

 

ここで今日2つのことを学びます。

 

まず1つ目に、

神の国に入るためには、

金持ちである必要はないということです。

 

もっと言えば、

あなたが何を持っているのか、

どんな地位を得ているのか、

どんな影響力を持っているのか、

どれだけ素晴らしい働きをされたのか、

どれだけ人々が驚くような業績を残されたのか、

 

目に見える何かによって、

救いが決定されるのではないということです。

 

続けて2つ目には、

では救いはどのように決まるのか、

それは私達の側でできることではなく、

神様が決定されることであるということです。

私達の救いは神様の領域であるということです。

 

すなわち、

神様が救ってくださるのでなければ、

私達の側でできることは何もないということです。

 

神の国に入るということは、

それほど尊いことであるのです。

 

私達が何か代価を払って入ることができるという、

そんな安価なものではないということです。

 

ポルシェを買うとか、

ランボルギーニを買うとか、

フェラーリを買うとか、

 

そんなレベルのお話ではないということです。

 

私達がいくら努力して入れない、

それが神の国であるということです。

 

神様が救ってくださらなければ、

神様の側で働いてくださらなければ、

私達ができることを何もないということです。

 

今日の結論です。

 

私達の救いを決定するのは神様です。

だから私達ができることがあるとすれば、

神様を見上げ、神様を愛し、神様とともに生きること、

このことを今日も慕い求めることであります。

 

間違ってならないことは、

金持ちになることが悪ではありません。

何かたくさんのものを持つことが、

悪いことであるというお話ではありません。

 

今日の聖書が言いたいことは、

それらが救いを決定しないということです。

いくら持っていてもそれが神の国を決定する、

そうではないということを強調するお話です。

 

誰が救われることができるのでしょうか。

 

今この瞬間に神様を見上げ、

今日も一日神様と生きることを決心する人です。

ポッドキャスト日々新しく#09 子は親の鏡

ポッドキャスト『日々新しく』平日毎朝6時更新しています。

聖書からのメッセージを10分ほどで語っています。

こちらにはメッセージの原稿をそのまま掲載させていただきます。

音声で聴きたい方がおられましたら下記のリンクからどうぞ!

 

Love Joy Peace Church キリスト教会: 日々新しく#09 20年8月20日 on Apple Podcasts

 

早速今日のメッセージですが、まず今日の聖書の1節を紹介したいと思います。

第二テモテ3章16節 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

今日はこの1節から、子は親の鏡というテーマでお話ししていきます。

 

子供はスポンジの様に親の言葉や行動を吸収して学びます。子は親の鏡です。不平不満ばかり言う親は、その子も不平不満ばかりを言う子に育ちます。怒りや憎しみを持っている親の子は、怒りや憎しみを持ちながら育っていきます。自信のない親は、子も自信ありません。

 

問題がどこにあるのかというと、親にあるという事です。子は親を見て育つのです。すなわち親がその子に対してどういう種を蒔いてきたのかという事であり、子は親が蒔いてきた種の収穫の実であるという事です。

 

だから子供に代わってほしいと願うならば、親がまず変わる事です。子供にこういう人間に成長をしてほしいと願うのならば、親がその為のモデルとなることです。

 

時に親は子を見てがっかりする事があります。何故ならば明らかに親である自分の悪い部分と同じものを持っていることを発見するからです。親の似て欲しくないと思える部分が、見事に子に継承されているということです。

 

家の中でポテチを食べながら、ソファーに横になってテレビばかりを見ている親が、勉強のできる子に育ってほしいと思ってはなりません。もしそう願うのならば、その親も勉強熱心であることは必要です。家の中で口を開けば不平不満ばかりを言っている親が、感謝のできる子に育ってほしいと思ってはなりません。まず先に親の口から不平不満を取り除く事です。そしてどんな小さなことでも感謝することを実践していくことであります。

 

これは実際私たちも経験していたことであると思います。例えば親の悪い部分を見つけて、自分は絶対にこうはならないぞと決心していたとしても、いざ大人になったらそれをしっかりと受け継いでいたということです。こうはなりなくないと思っていたことを、そのまま自分も子供にしてしまっているということです。

 

だからもし、子供の悪い部分が見えたのならば、それは子を責めるよりもまず、親が悔い改めなければなりません。子の悪い部分を見て怒る前に、まず親が大いに反省をしていかなければならないということです。親が変われば子も変わります。子供が育っていく上でそこがどの様な環境であるのかという事はとても大切な事なのです。

 

しかし同時に私たちが知っている事は、そんな事は頭ではわかっていても、実際には難しいという事です。そうです。実は人間とは、頭ではこうありたいとわかっていても、実際そう生きることは簡単ではないということです。もっと優しい人間になりたいと思っているのです。しかしできないのです。もっと努力する人間になりたいと思っているのです。しかしできないのです。もっと痩せなければばならないとわかっているのです。しかしできないのです。実行に移せないのです。実は私たちは、自分の力で自分を変えていくという事は本当に難しい事なのです。それが簡単ならばとっくに変わっているはずです。

 

それではどうすれば良いのでしょうか。私が変わっていくために、私ができる事は何でしょうか。今日の一緒を読んでみましょう。

第二テモテ3章16節 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

聖書の言葉とは、私たちにとってどの様な影響を与えてくれるのかがわかります。それは、私たちを教えます。戒めます。矯正し、訓練してくれるという事です。これが聖書が与えてくれる影響です。

 

私たちは変わりたいと思っても、それを自分の力で変えていく事は中々できません。それゆえに私たちには聖書の言葉が必要であるという事です。別の聖書箇所にはこうあります。神の言葉は生きていて力があると。

 

そうです。聖書の言葉には力があります。聖書の言葉は単なる読み物ではなく、私たちの人生に直接的な影響を与えるものです。もし聖書の言葉と私が出会っていなかったら、私が現在アメリカにいるという事はなかった事でしょう。この場所で教会を始めるなんて考える事できなかったでしょう。

 

何故ならば、私にはそれに相応しい資格も力も持っていないと思っているからです。私はそれをするのに足りる人間ではないと考えていたからです。実は私は劣等感の塊みたいな人生を生きていたのです。どうせ自分には何もできないと、これからも普通に生きることができればそれで良いと考えていたのです。人生にビジョンも目標も全くありませんでした。しかし聖書の言葉と出会って、その様な私の心が変えられたのです。私が今までの人生の中で最も大きな影響を受けた言葉を紹介します。マルコ9章23節です。こう書かれてあります。できるものならと言うのか、信じる者にはどんなことでもできるのです。

 

そう。私にはできません。私は何者でもありません。しかし私にはできなくても、私とともにいる神様にはできる。私は一人ではない。私一人ならば簡単に倒れます。しかし何でもできる神様が一緒にいるから、私は倒れる事はないと信じたのです。いわば、この言葉が私の考えを変えてしまったのです。私にはできるという思いを与えてくれたのです。これが聖書の力です。

 

だから心配しないてください。あなたにできなくても大丈夫です。あなたとともにいる神様に出会うことができるならば、その神様が私たちを変えてくださいます。神様の言葉が私たちを理想に近づく者として変えてくだれるのです。

 

私たちの教会で聖書と出会い、イエスキリストを信じ洗礼を受けた人々からよくこういうことを聞きます。聖書と出会って、神様を信じるようになって、感謝がわかる人になったということです。今までは怒りとか不平不満ばかりだった。しかし感謝がわかる人に変えられたと。そうです。聖書は私たちを変える力があります。私は私を変える事はできません。しかし聖書はこう言います。できるものならと言うのか。信じる者にはどんなことでもできるのです。そしてそれが子供たちにも、子供たちだけではない、私たちの周りにいる人々への良い影響となっていくのです。

 

今日どうでしょうか。子供たちのために、また周りに生きる人々のために、良いモデルとなって生きていきたいと願っている方はいるでしょうか。どうか、聖書を読んでみてください。神の言葉に私を変える力があるのです。


最後に一言お祈りいたします。天の父なる神様、子供たちに対して、周りにいる人々に対して、良い影響を与えることができるモデルとして、私自身を今よりさらに良い者として造り変えてください。イエスキリストの尊きお名前を通してお祈りいたします。アーメン 。

ポッドキャスト 日々新しく#08 苦しみから見える景色

聖書からのメッセージをポッドキャストで配信をしています。

聖書のメッセージを10分ほどのまとめて毎朝月曜日から金曜日まで更新しています。

こちらにはメッセージの原稿をそのままアップしています。

音声で聴きたい方はこちらのリンクからどうぞ!

 

Love Joy Peace Church キリスト教会: 日々新しく#08 20年8月19日 on Apple Podcasts

 

早速今日のメッセージですが、まず今日の聖書の1節を紹介したいと思います。

詩篇119篇71節 苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

今日はこの1節から、苦しみから見える景色というテーマでお話ししていきます。


今日読んだ1節を見ればこうあります。苦しみにあったことは、私にとって幸せでしたと。驚くことに苦しみと幸せを繋げているのです。一般的に考えるならば、幸せな人生を願うならば、なるべく苦しみという部分を避けようとするのではないでしょうか。苦しみを通ることが起こるならば、それは不幸な出来事として捉えてしまうでしょう。しかし今日の聖書の1節では、苦しみと幸せを繋げて語っているということです。なんとも不思議な内容であると言えるのです。


しかしどうでしょうか。私たちの人生を振り返ってみた時に、苦しみの時期というものは間違いなくありました。なるべくならばあまり思い起こしたいとは思わないような、そんな過去を通ることがあったと思うのです。もちろんその時は大変でした。この状況から早く抜け出すことができるように必死でした。しかし逆にそれがあったからこそ初めて見える景色というものがあり、今思えば悪いことばかりではなかったなと、自分の人生に間違いなく有益をもたらしているなと、そう思ったりもできるのではないでしょうか。


そうです。苦しみにあったからこそ、初めて見える景色があるということです。苦しみを通ることがなければ、決して見ることのできなかった世界というものが、苦しみを通して初めて見えるということです。

 

苦しみながら、辛い思いをしながら、ようやく富士山の頂上まで登ることを通して、そこに到達しなければ見ることのない素晴らしい景色がある。あまりにも辛くて、苦しくて途中で諦めてしまう、逃げてしまうということならば、それなりの景色しか見ることができません。苦しみを通して頂上に到達した者だけが見れる景色があるのです。それは最後まで苦しみから逃げることなく、そこを通った者だけに与えられる特権であります。

 

先日子供の教育に関する動画を見ていたのですが、その中でこのようなお話がされていました。時には子供に苦痛を与えることは良いことだという内容でした。子供に苦痛を与える経験をさせてあげることは、子供の成長に大きなプラスを与えるという内容です。

 

もちろん苦痛を与えると言っても、そんなに大袈裟なことをさせる必要はありません。例えば暑さと寒さを経験させるということです。例えば今は夏の時期で、家の中ではエアコンをガンガンかけて快適な温度にしていると思うのです。それを例えば10分だけでも切ってみるということです。常に快適な環境だけを与えるのではなく、少しばかり不便だと思える環境を経験させるということです。暑いなということを感じさせてあげる、エアコンがないと不便だなという経験をさせてあげるということです。そのような経験が子供の成長にプラスを与えるとのことです。良い環境だけではなく、快適な環境だけではなく、少しばかり不便だなと思える環境をも経験させること、そこから子供は多くを学ぶということです。

 

親は子供が転んで怪我をしないように、子供が走り出すと、転ぶから走らないとかすぐ言ってしまいます。それはもちろん子供を守るために、怪我から守るためにそう言ってるのですが、必要以上にそれをすることは間違いだということです。たまには怪我をすることも経験させる。膝小僧にかすり傷を折ったり、手を打って少しばかり痛いと思える経験をさせることはとても重要なことだということです。

 

私自身も子供が転ばないように、怪我をしないように、子供が走り出すとすぐに手を引っ張ろうとしてしまうので、それは少し反省しなければということです。もちろん車通りが多かったり、危険物がある所では守ります。しかしそうでない限り、例えば公園とか安全な場所であるならば、守りすぎは良くないということです。痛いことを経験する、怪我することを経験する、そこから子供はたくさんのことを学ぶということです。かわいい子には旅をさせろという言葉があります。また若いうちに苦労は買ってでもしろとも言います。過保護は良くないということです。真実なのだろうと思います。

 

私ごとでありますが、現在このようにポッドキャスト において聖書からのメッセージを平日毎朝更新ということで行っています。10分ほどの短いメッセージでありますが、しかし時間が短いからといって、簡単にメッセージを作ることができるのかというとそんなことはありません。もちろんすぐにできることもあれば、ある時は中々話す内容が決まらず、悪戦苦闘することもあるのです。

 

でもこの放送を始めるにあたって、私自身の中で一つ決めているルールがあります。それは一つのメッセージが出来上がるまでは寝ないというルールです。私はいつも息子が寝静まってから夜にこのメッセージを準備していますが、もし準備に二時間かかっても、三時間かかっても、体は睡眠を要求していても、それでも一つのメッセージが出来上がるまでは寝ないというルールを自分の中で決めているのです。ある意味自分に対するスパルタです。でもおそらくこういうルールをある程度決めておかなければ、平日毎朝更新は不可能かなと思っているのです。

 

この放送をいつまで続けるかは全く不明でありますが、私の願いとしてはこれからもずっと続けていきたいと考えているのでありますが、そのためにはある程度自分に対する厳しいルールを設けていこうと思っているのです。そして少しばかり厳しいと思える状況に自分を置くことによって、この先どのような景色を神様が見せてくれるだろか、私自身期待しているところであります。今日初めに読んだ聖書の1節をもう一度読んでみましょう。

 

詩篇119篇71節 苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

 

今日苦しみの中に置かれているという方はいますか。今はもちろんそれが幸せだとは思えないでしょう。しかし後で必ずわかります。このような苦しみを通ったからこそ、今自分にはこのような素晴らしい景色が見えている。苦しみにあったことも悪くはなかった、いや幸いだったと言える時は必ずやってくる。それが今日聖書を通して、私たちに語ってくださるメッセージです。

 

最後にお祈りいたします。愛する天の父なる神様、現在苦しみの中に置かれている人がいるでしょうか。今は苦しいかもしれません。辛いかもしれません。どうか神様の守りと励ましがありますように。そしてこの時期も自分にとって必要だった、幸せだったと言える、その日が1日も早く訪れるように祝福してください。イエスキリストの尊きお名前を通してお祈りいたします。アーメン 。

ポッドキャスト 日々新しく#07 委ねる祝福

ポッドキャスト において日々新しくという聖書メッセージを配信しています。

平日毎朝更新で、10分ほどにまとめたメッセージです。

こちらには配信されている内容の原稿をそのまま掲載しています。

音声で聞きたい方はこちらからどうぞ!

 

Love Joy Peace Church キリスト教会: 日々新しく#07 20年8月18日 on Apple Podcasts

 

早速今日のメッセージですが、まず今日の聖書の1節を紹介したいと思います。

 

第一ペテロ5章7節 あなた方の思い煩いを、一切神にゆだねなさい。神があなた方のことを心配してくださるからです。

 

今日はこの1節から、委ねる祝福というテーマでお話ししていきます。

 

今日はまずある一つの文章を紹介します。ネットでたまたま見つけた文章ですが、大変考えさせられる文章でしたので、ここで紹介できればと思います。タイトルはボロボロの家族写真というタイトルの文章です。


俺が小さい頃に撮った家族写真が一枚ある。見た目普通の写真なんだけど、実はその時父が難病を宣告されていてそれほど持たないだろうと言われ、入院前にこの世最後の写真はせめて家族と・・・と撮った写真らしかった。

 

俺と妹はまだそれを理解できずに無邪気に笑って写っているんだが、母と祖父、祖母は心なしか固いというか思い詰めた表情で写っている。当の父はというと、どっしりと腹をくくったと言う感じで、とても穏やかな表情だった。

 

母がその写真を病床の父に持って行ったんだが、その写真を見せられた父は特に興味も示さない様子で「その辺に置いといてくれ、気が向いたら見るから」とぶっきらぼうだったらしい。母も、それが父にとって最後の写真と言う事で、見たがらないものをあまり無理強いするのもよくないと思って、そのままベッドのそばに適当にしまっておいた。


しばらくして父が逝き、病院から荷物を引き揚げる時に改めて見つけたその写真は、まるで大昔からあったようなボロボロさで、家族が写っている部分には父の指紋がびっしり付いていた。普段もとても物静かで、宣告された時も見た目普段と変わらずに平常だった父だが、人目のない時、病床でこの写真をどういう気持ちで見ていたんだろうか。

 

今、お盆になると、その写真を見ながら父の思い出話に華が咲く。祖父、祖母、母、妹、俺・・・。その写真の裏側には、もう文字もあまり書けない状態で一生懸命書いたのだろう、崩れた文字ながら、「本当にありがとう」とサインペンで書いてあった。


文章はここまでです。どうでしょうか。感動的なお話です。しかし感動的なお話だけではない、色々と深く考えさせる内容ではないでしょうか。皆様はこの内容を聞きながら何を思ったでしょうか。

 

私も色々と思わされることがありました。私にも同じく小さな息子がいて、もし同じ立場になってしまったら、自分はどう思うだろうかと考えさせられたのです。正直なことを言えば、1日でも長く生きて、息子との時間を過ごせたらと思うのです。しかし同時に、私だっていつ何が起こるかわかりません。人間誰しもが明日も生きると考えながら生きています。しかし明日何が起こるのか、いや10分後に何が起こるのかわからないのが、私たちの人生ではないかと思うのです。


だから私は与えられている今日という1日を、家族と共に、小さな息子と共に、精一杯生きていくことができれば、息子の成長のために、少しでも役に立てる者として生きていくことができればとそう思わせられるのです。


また同時に、もし本当に自分にすぐに何かが起こってしまったら、もし先ほどのまだ若いお父さんのようになってしまったら、自分はどう考えるだろうかとも思うのです。やはり無念だと思います。悔しい気持ちでいっぱいになると思います。人には見せなかったかもしれませんが、文章に出てきたお父さん、おそらく毎晩涙を流していたのであろうと想像するのです。私ももし同じ立場になったらそうなることでしょう。


でも一つ私に気づかされたことがあるのです。最大の願いは1日でも長く生きて、家族と一緒に幸いな時間を過ごすことです。しかしもしそれが願わなかったとしても、そう、私の家族には私よりももっと頼りになり、信頼できるお方、天の父なる神様がいるということです。神様が家族を守ってくれる。神様が小さな息子を支え成長をさせてくださる。


もちろんそうならないことを願うのでありますが、先ほども言ったように、私たちの人生は明日何が起こるかわからない人生。今日と同じように明日も生きることができる保証は全くない人生。最近は人生100年時代と言われていて、そう考えれば私はあと50年は生きることができます。しかしそうなる保証はどこにもないということです。


私の知り合いで50代のうちに仕事をリタイアし、毎日ゴルフをしながら、また美味しいものを食べながら、楽しく生きている方がいました。お金もある程度あって、これから先も経済的にも心配なく、楽に生きていくることができるという状況でした。その方が言っていたことは、人生は100年時代、自分は100歳まで生きるんだ。そうなると後25年はある。人生楽しむぞと常々そう言っていた方でした。ところが75歳を過ぎた今年の5月、ある病によって入院し、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。


私たちが忘れてはならないことは、いくら私たちが後5年生きたい、10年生きたい、そのように願ったとしても、私たちの計画通りにならないこともあるということです。だから私たちは今日も生かされているならば、また明日も朝目を覚ますことができるならば、与えられる1日に感謝する心を持って、愛する家族と共に、もしくは愛する友人や仲間たちとともに精一杯生きていくことができればという思いであります。


また同時に私に関して言えば、もし明日何かが起こったとしても、必要以上に心配することはない、必要以上に憂うことはない、必要以上に落胆することはないということです。なぜでしょうか。神様を信じているからです。イエスキリストを救い主として信じているからです。今日はじめに読んだ1節をもう一度読んでみましょう。

 

第一ペテロ5章7節 あなた方の思い煩いを、一切神にゆだねなさい。神があなた方のことを心配してくださるからです。


もし最悪と思えることが起こっても、私はそのことをも神に委ねることができるのです。思い煩うできことが起こっても、それを神にお任せしていくことができるのです。もし私に何かが起こっても、神が家族を守ってくれる。神がこの小さな息子の手を握り、彼の人生を導いてくださる。成長させてくださる。このような信仰が与えられていることに幸いを感じているのです。


どうでしょうか。私に一切を委ねなさいと語っていてくださるお方に、私たちの思い煩いの一切を委ねてみてはどうでしょうか。私たちにできることには限界があるのです。しかし私に委ねなさいと語られる神様には限界がありません。無限の力をもって、私たちの人生を導いてくれるのです。


最後に一言お祈りいたします。愛する天の父なる神様。もし今日何かに対して思い煩いをもって、心配事を持って、憂きめにあい辛い思いをしている人がいるならば、どうかそれら全てのことを神様にお委ねすることができる祝福を与えてください。イエスキリストの尊きお名前を通してお祈りいたします。アーメン 。

日々新しく#06 無から有を生み出すお方

ポッドキャスト において日々新しくという聖書メッセージを配信しています。

平日毎朝更新で、10分ほどにまとめたメッセージです。

こちらには配信されている内容の原稿をそのまま掲載しています。

音声で聞きたい方はこちらからどうぞ!

Love Joy Peace Church キリスト教会: 日々新しく#06 20年8月17日 on Apple Podcasts

 

早速今日のメッセージですが、まず今日の聖書の1節を紹介したいと思います。

創世記1章3節 神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。

今日はこの1節から、無から有を生み出すお方というテーマでお話ししていきます。

 

まず今日読んだ聖書の1節を見れば、神が言葉をもって光を創造されたということがわかります。まだ光というものがこの世界に存在をしていなかった時に、神はご自身の語る言葉を持って光を創造されたのです。光がないところに光を創造されたということです。

 

ここからわかる重要なことは何かというと、聖書の神様とはどのようなお方かということがわかります。それは無から有を造ることのできるお方であるということです。何も無いところから有るものを生み出すことのできるお方です。

 

今日読んだ聖書の1節は創世記第1章の中に記録されていますが、創世記1章とは聖書の一番初めの章であります。聖書を開けば一番初めに記録されているのが、創世記1章であります。ではこの聖書の始まり創世記1章では何が記録されているかというと、神による天地創造の出来事が記録されているのです。この世界は神によって造られ、神によって世界の歴史がスタートしたということです。太陽も月も星も、植物も動物も私たち人間をも、その始まりは神である、神によって全てが創造されたということです。

 

では神がどのようにしてそれらを創造されたかというと、神の語る言葉によって創造されたということです。先ほど読んで確認した通りに、光があれと仰せられると光があった。光というものがこの世界に存在をする前に、神の言葉によって光ができたということです。

 

何を教えているのでしょうか。神の言葉には力があるのです。神が言葉を発するならば、無かったものが有るものとなるということです。無が有になる力が神の言葉にあるのです。無から有を生み出す力です。

 

そして感謝なことは、無から有を生み出す神の言葉の力は、天地万物を創造された時だけ発揮されたということではなく、天地万物を創造された時だけ適用されたということでもなく、今この時代に生きる私たちの人生にも発揮されるし、適用されるということです。今この時代を生きる私たちの人生の中にも、神の言葉の力というものが現れるのです。

 

では具体的にどのようにして私たちの人生に発揮され、適用されるのでしょうか。それは聖書です。聖書の言葉は、神の言葉なのです。神の言葉は聖書の中に全て記録されてあるのです。神の言葉に触れたければ、聖書を開けば良いのです。聖書を読み始めれば良いのです。聖書とは単なる書物ではありません。神の言葉なのです。だから私たちが聖書の言葉に触れる時、それは神の言葉に触れていることなのです。神の言葉である聖書の言葉に触れる時、私たちの人生にも無から有が生み出されるという体験をすることになるのです。

 

例えば私は24歳の時に初めて教会に行き、それから聖書の言葉、すなわち神の御言葉と出会うようになりました。それまでの私の人生と言えば、ただなんとなく生きているような、生きる目標とか希望とか夢とか、そのようなものが全く無いような人生でした。人生の中に目的とか活力とかみなぎるエネルギーみたいなものはほぼゼロでした。ただなんとなく今日を生きているという廃人のような人生でしかありませんでした。

 

しかし24歳で教会に通い始め、聖書の言葉と出会うようになってから、私の人生は一変してしまいました。希望が出てきました。目標が与えられるようになりました。夢を見るようになりました。人生に目的が与えられるようになりました。活力が与えられ、生きるエネルギーを持つことになっていくのです。

 

具体的に言えば、この素晴らしい聖書の福音の言葉を、さらに多くの人々に届けなければならないということです。聖書の中には、全世界にでていき、全ての造られた者に福音を伝えなさいという1節がありますが、まさに私にそのような目標が与えられたのです。ビジョンのなかった者が、ビジョンを持つ者と変えられていったのです。

 

そしてそのビジョンが具体的な形となり、現在私は牧師という立場をいただいて、聖書のメッセージ、すなわち無から有を生み出すことのできる神様の御言葉を、人々に届けることができるという、そのような者として変えられたということです。ビジョンの無かった者から、ビジョンの有る者へと変えられました。生きる目的の無かった者から、目的を持って生きる者へと変えられました。全世界に生きる人々にこの素晴らしい神の言葉を伝えるということのために走り続けていくという目標です。このポッドキャスト の配信を始めたことも、この目標を果たすことのための一環であります。

 

神の言葉、すなわちこの聖書の言葉にはそのような力があるのです。無から有を生み出す力があるのです。目的の無かった人生から目的を生み出す力です。活力の無かった人生から、活力を生み出す力です。ビジョンの無かった人生からビジョンを生み出す力です。それが聖書の言葉、すなわち神の言葉にあるのです。

今日最後に知っていただきたいことがあります。もしかしたら自分は何も持っていない、何もできない、何者でも無い、そのような残念な人間である、虚しい人生である、そのように考えている方がいるかもしれません。しかし今日安心してください。そのような人間であったとしても全く問題ありません。もしその人が神の言葉と出会うならば、神の言葉がその人の心の中に入っていくことになるならば、そこから今まで考えてもいなかったような人生の目標とか、人生のビジョンとか、活力とか、そのようなものが生み出されていくことになるということです。

 

私もそうでした。私こそ本当に何者でもありませんでした。神と出会う前は、聖書の言葉と出会うまでは、なんの目標もない人間でした。しかし聖書の言葉が私に入ることによって、今まで私の人生になかったものが、新しく生み出されてきたのです。

 

どうでしょうか。自分は何者ではないと落ち込んでいる方がいますか。人生に虚しさを覚えている方がいますか。大丈夫です。今日からです。今からです。神の言葉が、私たちの人生に新しいものを間違いなく生み出してくれるのです。

 

最後に一言お祈りします。無から有を生み出される神様の言葉を、今日も私たちは必要としています。どうか、あなたの御言葉によって私たちを生かしてください。希望のある人生、目的の有る人生、活力のある人生、エネルギーに溢れる人生へと導いてください。イエスキリストの尊きお名前によってお祈りいたします。アーメン 。