聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

祈りの声をあげましょう

今日の黙想 26年9月12日

詩篇119篇169〜176節


今朝の御言葉には、苦難の中で主に切実に祈り続ける詩篇の記者の姿が描かれています。「私の叫びが御前に近づきますように」「私の切なる願いが御前に届きますように」とあるように、彼は苦しみの中で主を呼び求め、その願いを主の御前に注ぎ出しています。

 

私自身も、人生の中で切実な祈りを捧げた時がありました。東京にいた頃、学校の仕事をしながら教会で賛美を導き、御言葉を語る働きをしていました。しかし、仕事の時と教会での自分の姿があまりにも違うことに葛藤を覚えるようになりました。このまま二つの顔を持ったまま歩み続けてよいのか、「これが神様のくださった道なのでしょうか」と真剣に祈り始めました。3ヶ月以上祈り続けた時、第一ペテロ5章2節の御言葉が与えられ、学校の仕事を辞めて神様の働きに専念する道へ進む決心をしました。

 

さらに、ニュージャージーで牧会を始めることが示された時も、ビザ、住まい、生活費、伝道など何も分からず、知り合いも英語力もありませんでした。それでも神様が示された道だから従うと決心しました。しかし、その後約9ヶ月間、何も動かない時間が続きました。その時にできたことは、ただ祈ることでした。そして主は祈りに答え、私をニュージャージーへ導いてくださいました。あれから21年、今もこの地で神様の働きを続けています。

 

私たちの叫びは主の御前に近づき、切なる願いは必ず主に届きます。だからこそ、苦難の中で祈ることをやめてはいけません。

 

詩篇50篇15節は、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」と語ります。主を呼び求めるなら、主は助け出し、私たちは神様の助けと守り、そして栄光を体験します。そして、その体験は私たちの内に賛美を生み出します。

 

詩篇119篇は今日で終わりますが、御言葉を愛し、御言葉を握り、御言葉とともに生きる人生に終わりはありません。今日も主の約束を握り、大胆に祈りの場に出て、主の御名を呼び求めていきましょう。


 

《黙想のポイント》

苦難の中で私たちは、心の中で悩み続けるのではなく、主の御前に叫び、切なる願いを捧げているでしょうか。祈りがすぐに答えられなくても、主は私たちの叫びを聞いておられます。今日も御言葉を握り、祈り続ける者となりましょう。

 

 


《祈りの言葉》

主よ、私の叫びと切なる願いを御前に届けてください。苦難の中で祈ることを諦めず、主の約束を握って呼び求め続けます。私の祈りに答え、主の助けと栄光を体験させてください。そして、私の人生から主への賛美が湧き上がる1日を生かしてください。イエス様の御名によってお祈りいたします。

 

御言葉にしたがった救い

今日の黙想 26年9月11日

詩篇119篇153〜168節


詩篇119篇153節で、詩篇の記者は「私の悩みを顧み、私を助け出してください」と主に訴えています。彼は苦しみや悲しみの中にいました。しかし、そのような状況にあっても、彼は人や自分の力に頼るのではなく、神様に向かって助けを求めました。これこそ、神様を信じる私たちに与えられている大きな特権です。悩み、苦しみ、涙を流す時にも、天地万物を創造された父なる神様に「助けてください」と祈ることができるのです。

 

さらに153節には「私はあなたの御教えを忘れません」とあります。つまり、詩篇の記者は御言葉が教えている通りに祈っていたのです。御言葉は、苦難の日には主を呼び求めよと教えています。だからこそ彼は、苦難の中で主に叫びました。

 

154節でも「御言葉に従って、私を生かしてください」と祈ります。これは、神様が以前から語ってくださった約束に基づく祈りです。聖書が示す神様の御心は、私たちを滅ぼすことではなく、生かすことです。エゼキエル18章32節、ヨハネ3章16節は、神様が人に命を与え、救い、永遠の命を得させることを願っておられると教えています。またエレミヤ29章11節は、神様の計画が災いではなく、平安と将来と希望を与えるものであることを示しています。だから私たちは、この御言葉を根拠として大胆に祈ることができます。

 

ジョージ・ミュラーというイギリスで孤児院を運営していた人物も、神様の約束を握って祈った人でした。孤児院の子どもたちの食事さえ十分に用意できない時にも、神様が日ごとの糧を与えてくださることを信じて祈りました。私たちも同じように、状況ではなく御言葉に立ち、「御言葉に従って私を助け、救い出してください」と大胆に主に祈りましょう。


黙想のポイント

苦しみの中にいる時、私たちは目の前の現実を見て不安になります。しかし、神様の御言葉には私たちを生かし、救い、将来と希望へ導く約束があります。今日、その約束を握り、御言葉を根拠として大胆に主に祈ってみましょう。


祈り

主よ、今、悩みや苦しみの中にいる私を顧み、御言葉に従って助け出してください。あなたが私を生かし、救い、将来と希望を与えてくださることを信じます。状況ではなくあなたの約束を握り、大胆に祈る信仰を与えてください。イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

切実な祈り

今日の黙想 26年9月10日

詩篇119篇137〜152節


詩篇119篇145〜147節には、「心を尽くして呼びました」「あなたを呼びました」「夜明け前に起きて叫び求めます」と、主を呼び求める姿が繰り返されています。詩篇の記者は、苦難と窮乏が襲い、悪を追い求める者が近づく中で、主の助け、守り、力、導きを切実に求めていました。特に「夜明け前に起きて叫び求める」という言葉から、祈らずにはいられない、主を求めずにはいられないほどの必死さが伝わってきます。

この姿を見ながら、私たち自身の祈りを振り返らされます。祈りが大切であることを知り、祈祷会や早天祈祷を行っていても、果たして詩篇の記者のように「祈る以外に道はない」と心から主にすがり祈ってきただろうかと問われます。

また、十字架を前にしたイエス様のゲッセマネの祈りも思い起こします。イエス様は苦しみもだえ、いよいよ切に祈られ、汗が血のしずくのように落ちるほど祈られました。その祈りの中で御使いが現れ、イエス様を力づけました。祈りによって苦難に立ち向かう力を受けられたのです。

ある韓国の教会の牧師も、牧会の道で「祈る以外に方法がなかった」と語り、問題や困難のたびに人や方法を頼るのではなく、まず主の御前に出て祈ることを大切にしました。祈りに専念する中で、神様ご自身が働き、道を開いてくださることを経験したのです。

そして詩篇119篇151節には、「主よ。あなたは私に近くおられます」とあります。切実に祈る人は、苦しみの中でも主が近くにおられることを知ります。だから大丈夫なのです。今日、私たちも祈りの場所に戻り、何よりも祈る教会、そして一人一人が祈りの人として立ち上がることを願います。


黙想のポイント

問題が起こった時、私は何をしているだろうか。人の助けや自分の方法を探す前に、主の御前にひれ伏しているだろうか。詩篇の記者やイエス様のように、祈る以外に道はないという切実さを持って、主を呼び求めたい。祈りの中で、主が近くにおられることを知りたい。


 

祈り

主よ、私をもう一度祈りの人にしてください。困難の中で人や方法に頼る前に、まずあなたを呼び求める者としてください。夜明け前から主を求めた詩篇の記者のように、またゲッセマネで切に祈られたイエス様のように、切実に祈らせてください。祈りの中であなたが近くにおられることを悟らせてください。

 
 

あなたの幸いの保証人

今日の黙想 26年9月9日

詩篇119篇121〜136節


今日の御言葉から、私たちは「あなたの幸いの保証人」という神様の御心を覚えます。特に126節の「今こそ主が事をなさる時です」という御言葉は、今日の私たちの宣言となるべきです。今置かれている状況がどれほど厳しく、敗北のように見え、周囲から笑われたり、哀れに思われたりする状況であったとしても、それが私たちの人生の結論ではありません。神様が事をなさる時は、必ず備えられているのです。

教会の開拓も、何もないゼロからのスタートでした。礼拝する場所も、共に礼拝する人もほとんどいない中で始まりました。大きな韓国教会の中で、わずかな人数で力いっぱい賛美する姿を見て、笑われることもありました。「リバイバルしましたか」と尋ねられるたびに、悔しさや葛藤、比較する思いを抱くこともありました。教会は人数や大きさで測るものではないと分かっていても、自分の弱さや力不足を思い知らされることがあります。

しかし、神様の恵み、救い、祝福、愛とあわれみは、私たちの人生にも教会にも満ちています。それでも私たちは、与えられた恵みよりも、足りないものやマイナスの状況に心を向け、焦り、苛立ち、自信を失ってしまいます。だからこそ、私たちは126節をもう一度宣言する必要があります。「今こそ主が事をなさる時です」と。

そして、そのような希望を持って生きるために、神様の御言葉を愛することが大切です。127節にあるように、御言葉を金や純金よりも愛し、122節の「あなたのしもべの幸いの保証人となってください」という祈りを心に刻みましょう。神様は私たちが幸いになることを願い、そのために保証人となってくださいます。さらに130節のように、御言葉の戸が開かれ、光が差し込むまで御言葉を求め続けるなら、そこに希望と信仰の光が差し込みます。

幸いを得る時、勝利する時、癒される時、問題の城壁が崩される時、リバイバルと救いの時は、神様によってすでに備えられています。今の状態が結論ではありません。今日も御言葉を信じ、「今こそ主が事をなさる時」と宣言しながら、希望をもって歩んでいきましょう。


黙想のポイント

今の状況が私の人生の結論ではありません。神様は私の幸いの保証人となってくださいます。だからこそ、足りなさや困難に心を奪われるのではなく、御言葉を金や純金よりも愛し、御言葉から差し込む希望の光を待ち望みましょう。


祈りの言葉

主よ、今の状況だけを見て焦り、落胆し、他人と比較してしまう私を赦してください。あなたが私の幸いの保証人であることを信じます。「今こそ主が事をなさる時」と宣言し、今日も御言葉を愛し、希望と信仰をもって歩ませてください。アーメン。

勝利が約束されている人生

今日の黙想 26年9月8日

詩篇119篇105〜120節


詩篇の記者は、悩みや悪者の仕掛けた罠、命がけの状況に直面しながらも神に信頼を寄せています。私たちも日々、悪者の罠によって倒され、苦しむことがありますが、決して悪者が最終的な勝利者となることはありません。イエス・キリストを信じる私たちに備えられている結末は、必ず「勝利」だからです。

この勝利は、ギリギリの勝利ではなく、ローマ人への手紙8章37節でパウロが告白したような「圧倒的な勝利(勝ちて余りがある勝利)」です。パウロ自身も宣教の中で苦難、迫害、飢え、危険などに直面しましたが、「これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者となる」と確信していました。聖書が語る勝利とは、苦難が消失することではなく、どんな苦難の中にあっても神の愛によって完全に打ち勝つことを意味します。

詩篇119篇118-119節にあるように、神の掟から迷い出る悪者は最終的に退けられ、金属を精錬する際に出る価値のない「金かす」のように取り除かれます。悪者の終焉は敗北であり、勝利することは決してありません。

この真理を最も明確に示しているのが、イエス・キリストの十字架と復活の出来事です。悪者たちはイエスを十字架につけて殺せば神の計画を挫折させられると考えました。十字架上のイエスの姿は一見、完全な敗北に見えましたが、天の父なる神は三日目にイエスを死から復活させられました。神は悪者の最大・最後の武器である「死」に対して圧倒的な勝利を収められ、新しいストーリーを展開されたのです。したがって、イエスを信じる私たちの歩みも、苦しみや死で終わることはなく、最後には復活の栄光と勝利が約束されています。

詩篇119篇105節にあるように、神の御言葉は私たちの「足のともしび、道の光」です。暗闇や試練の中にあっても、御言葉の光に従って歩む時、私たちは勝利の道へと導かれます。詩篇の記者のように「御言葉に従って私を生かしてください」と祈り、勝利を約束する御言葉の光に照らされて、希望を持って歩んでいくことが求められています。


黙想のポイン

今、苦難や罠の中にいても、キリストにある私たちの結末は「圧倒的な勝利」であると約束されています。十字架のような敗北に見える状況から復活という勝利を実現された神を仰ぎ見ましょう。御言葉を足のともしびとして信頼し、目先の試練ではなく、神が用意される栄光の勝利に目を留めて歩んでいるかを確認しましょう。


祈りの言葉

天の父なる神様、試練や悪者の罠により悩み苦しむ時も、私たちが決して敗北者ではなく、キリストによって勝ちて余りある者とされていることを感と、また復活の希望を固く信じて、今日も御言葉の光の中を力強く歩ませてください。主イエスの御名によってお祈りします。

苦しみが幸せの場所に変わる時

今日の黙想 26年9月5日

詩篇119篇65〜72節


詩篇119篇71節には、「苦しみに会ったことは私にとって幸せでした。そうして私はあなたのおきてを学びました」とあります。私たちは普通、苦しみを幸せとは考えません。しかし詩篇の記者は、苦しみの中で神様の御言葉を学び、神様の慈しみを深く体験したからこそ、そのように告白することができました。

苦しみは、苦しみだけで終わるものではありません。苦しみの中だからこそ学ぶことがあり、苦しみを経験したからこそ見える世界があります。苦しみがなければ知ることのできなかった神様の愛や恵みを、苦しみを通して知ることがあるのです。苦しみは私たちにとって新しい世界を開くことがあります。

三浦綾子さんも、病気を通して神様と出会い、キリストの愛を知りました。彼女は、病気にならなければ神様を知ることも、キリストの愛に出会うこともなかっただろうと語っています。また、病気にならなければ他人の痛みに無関心で、高慢な人間のままだっただろうとも語っています。彼女の言葉が多くの人に慰めと希望を与えるのは、苦しみの中で実際に神様を体験した人の言葉だからです。

ダビデも同じでした。サウルに命を狙われ、逃亡生活を続ける中で、主の救いと守りを体験しました。だからこそ、「主は私の光、私の救い」「主は私のいのちのとりで」と力強く告白することができました。これは知識として学んだ言葉ではなく、苦しみの中で体験した信仰の告白です。

私たちも人生の中で苦しみを避けることはできません。しかし、苦しみの中にいるからこそ体験できる神様の恵みがあります。神様は苦しみの中でも私たちを見捨てず、共にいてくださり、その御手で守ってくださいます。だから、苦しみの場所で主の御顔を仰ぎ、神様の愛と慈しみを体験するなら、その場所さえも私たちにとって「幸せな場所」へと変えられていくのです。


黙想のポイント

今、私が苦しみの中にいるなら、その苦しみを通して神様が何を教えてくださっているのかを考えてみましょう。苦しみの中でこそ見える神様の愛と恵みがあります。


 

祈り

主よ、苦しみから逃れることだけを求めるのではなく、その中であなたを深く知ることができますように。私を見捨てず共にいてくださるあなたの愛を体験し、苦しみの中でもあなたを信頼できますように。アーメン。

 

御言葉が私を生かします

今日の黙想 26年9月4日

詩篇119篇49〜64節


 

詩篇119篇49節で詩篇の記者は、「あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました」と祈っています。

ここには、神様から与えられた約束があるにもかかわらず、その成就がなかなか実現しない状況が見えます。時間が過ぎる中で、「本当にこの約束は実現するのだろうか」「神様は忘れてしまったのではないか」と思ってしまうこともあります。しかし、記者はそれでも約束の成就を待ち望みます。

これが信仰です。信仰とは、望み得る状況で望むことではなく、望み得ないように見える時にも、神様の約束を信じて望みを抱くことです。現実が不可能に思えても、神様が語られた御言葉を握り、最後まで信じ続けるのです。

私たちの人生にも、なかなか実現しない約束があるかもしれません。日本のリバイバル、家族の救い、約6万人の人々に福音を伝えること、そして私たちの教会がその働きのために用いられることも、現実を見るなら不可能に思えるかもしれません。しかし、信仰者は現実だけを見るのではなく、神様の約束を見続けます。

50節では、苦しみの中にいる記者を生かし、慰めるものが御言葉であると語られています。不安や心配、不信仰に陥りそうな時だからこそ、私たちは御言葉を求めなければなりません。御言葉に目を留め、そこに心を置く時、私たちは新しい力と希望を受け取ることができます。

アブラハムは、まだ子どもがいない時に、神様から数え切れないほどの子孫についての約束を与えられました。またエゼキエルは、絶望的なバビロン捕囚の中にいるイスラエルに、神殿の幻を見せられました。現実は絶望的でも、神様のビジョンを見る者は希望を失いません。

私たちが見るべき幻も、神様の御言葉です。御言葉には神様のビジョンと約束が満ちています。だからこそ、今日も「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さない」(ヘブル12:2)ことが大切です。現実ではなくイエス様を見続け、約束の御言葉に留まり、成就の時を待ち望みながら歩んでいきましょう。


黙想のポイン

私は今、現実を見て「無理だ、不可能だ」と思っていないだろうか。それとも、神様の約束の御言葉に目を留め、成就の時を待ち望んでいるだろうか。今日、もう一度イエス様と御言葉に目を向けよう。


祈り

主よ、現実に目を奪われ、不信仰にならないようにしてください。あなたの約束を信じ、御言葉から目を離さず、成就の時を最後まで待ち望む信仰を与えてください。今日もイエス様を見て歩ませてください。