聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

ポッドキャスト 日々新しく#08 苦しみから見える景色

聖書からのメッセージをポッドキャストで配信をしています。

聖書のメッセージを10分ほどのまとめて毎朝月曜日から金曜日まで更新しています。

こちらにはメッセージの原稿をそのままアップしています。

音声で聴きたい方はこちらのリンクからどうぞ!

 

Love Joy Peace Church キリスト教会: 日々新しく#08 20年8月19日 on Apple Podcasts

 

早速今日のメッセージですが、まず今日の聖書の1節を紹介したいと思います。

詩篇119篇71節 苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

今日はこの1節から、苦しみから見える景色というテーマでお話ししていきます。


今日読んだ1節を見ればこうあります。苦しみにあったことは、私にとって幸せでしたと。驚くことに苦しみと幸せを繋げているのです。一般的に考えるならば、幸せな人生を願うならば、なるべく苦しみという部分を避けようとするのではないでしょうか。苦しみを通ることが起こるならば、それは不幸な出来事として捉えてしまうでしょう。しかし今日の聖書の1節では、苦しみと幸せを繋げて語っているということです。なんとも不思議な内容であると言えるのです。


しかしどうでしょうか。私たちの人生を振り返ってみた時に、苦しみの時期というものは間違いなくありました。なるべくならばあまり思い起こしたいとは思わないような、そんな過去を通ることがあったと思うのです。もちろんその時は大変でした。この状況から早く抜け出すことができるように必死でした。しかし逆にそれがあったからこそ初めて見える景色というものがあり、今思えば悪いことばかりではなかったなと、自分の人生に間違いなく有益をもたらしているなと、そう思ったりもできるのではないでしょうか。


そうです。苦しみにあったからこそ、初めて見える景色があるということです。苦しみを通ることがなければ、決して見ることのできなかった世界というものが、苦しみを通して初めて見えるということです。

 

苦しみながら、辛い思いをしながら、ようやく富士山の頂上まで登ることを通して、そこに到達しなければ見ることのない素晴らしい景色がある。あまりにも辛くて、苦しくて途中で諦めてしまう、逃げてしまうということならば、それなりの景色しか見ることができません。苦しみを通して頂上に到達した者だけが見れる景色があるのです。それは最後まで苦しみから逃げることなく、そこを通った者だけに与えられる特権であります。

 

先日子供の教育に関する動画を見ていたのですが、その中でこのようなお話がされていました。時には子供に苦痛を与えることは良いことだという内容でした。子供に苦痛を与える経験をさせてあげることは、子供の成長に大きなプラスを与えるという内容です。

 

もちろん苦痛を与えると言っても、そんなに大袈裟なことをさせる必要はありません。例えば暑さと寒さを経験させるということです。例えば今は夏の時期で、家の中ではエアコンをガンガンかけて快適な温度にしていると思うのです。それを例えば10分だけでも切ってみるということです。常に快適な環境だけを与えるのではなく、少しばかり不便だと思える環境を経験させるということです。暑いなということを感じさせてあげる、エアコンがないと不便だなという経験をさせてあげるということです。そのような経験が子供の成長にプラスを与えるとのことです。良い環境だけではなく、快適な環境だけではなく、少しばかり不便だなと思える環境をも経験させること、そこから子供は多くを学ぶということです。

 

親は子供が転んで怪我をしないように、子供が走り出すと、転ぶから走らないとかすぐ言ってしまいます。それはもちろん子供を守るために、怪我から守るためにそう言ってるのですが、必要以上にそれをすることは間違いだということです。たまには怪我をすることも経験させる。膝小僧にかすり傷を折ったり、手を打って少しばかり痛いと思える経験をさせることはとても重要なことだということです。

 

私自身も子供が転ばないように、怪我をしないように、子供が走り出すとすぐに手を引っ張ろうとしてしまうので、それは少し反省しなければということです。もちろん車通りが多かったり、危険物がある所では守ります。しかしそうでない限り、例えば公園とか安全な場所であるならば、守りすぎは良くないということです。痛いことを経験する、怪我することを経験する、そこから子供はたくさんのことを学ぶということです。かわいい子には旅をさせろという言葉があります。また若いうちに苦労は買ってでもしろとも言います。過保護は良くないということです。真実なのだろうと思います。

 

私ごとでありますが、現在このようにポッドキャスト において聖書からのメッセージを平日毎朝更新ということで行っています。10分ほどの短いメッセージでありますが、しかし時間が短いからといって、簡単にメッセージを作ることができるのかというとそんなことはありません。もちろんすぐにできることもあれば、ある時は中々話す内容が決まらず、悪戦苦闘することもあるのです。

 

でもこの放送を始めるにあたって、私自身の中で一つ決めているルールがあります。それは一つのメッセージが出来上がるまでは寝ないというルールです。私はいつも息子が寝静まってから夜にこのメッセージを準備していますが、もし準備に二時間かかっても、三時間かかっても、体は睡眠を要求していても、それでも一つのメッセージが出来上がるまでは寝ないというルールを自分の中で決めているのです。ある意味自分に対するスパルタです。でもおそらくこういうルールをある程度決めておかなければ、平日毎朝更新は不可能かなと思っているのです。

 

この放送をいつまで続けるかは全く不明でありますが、私の願いとしてはこれからもずっと続けていきたいと考えているのでありますが、そのためにはある程度自分に対する厳しいルールを設けていこうと思っているのです。そして少しばかり厳しいと思える状況に自分を置くことによって、この先どのような景色を神様が見せてくれるだろか、私自身期待しているところであります。今日初めに読んだ聖書の1節をもう一度読んでみましょう。

 

詩篇119篇71節 苦しみに会ったことは、私にとって幸せでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

 

今日苦しみの中に置かれているという方はいますか。今はもちろんそれが幸せだとは思えないでしょう。しかし後で必ずわかります。このような苦しみを通ったからこそ、今自分にはこのような素晴らしい景色が見えている。苦しみにあったことも悪くはなかった、いや幸いだったと言える時は必ずやってくる。それが今日聖書を通して、私たちに語ってくださるメッセージです。

 

最後にお祈りいたします。愛する天の父なる神様、現在苦しみの中に置かれている人がいるでしょうか。今は苦しいかもしれません。辛いかもしれません。どうか神様の守りと励ましがありますように。そしてこの時期も自分にとって必要だった、幸せだったと言える、その日が1日も早く訪れるように祝福してください。イエスキリストの尊きお名前を通してお祈りいたします。アーメン 。