聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

ポッドキャスト 日々新しく#05 あなたは高価で尊い

ポッドキャスト 『日々新しく』聖書からの10分メッセージを絶賛配信中です!!

こちらのブログでは配信内容の原稿をそのまま掲載いたします。

音声で聞かれたい方はこちらのリンクからお願いします。

Love Joy Peace Church キリスト教会: 日々新しく#07 20年8月18日 on Apple Podcasts

 

 

早速今日のメッセージですが、まず今日の聖書の1節を紹介したいと思います。

イザヤ43章4節

わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

今日はこの1節から、あなたは高価で尊いというテーマでお話ししていきます。


今日まずはじめに、ある方のお話をしようと思います。最近読んだ本の中で、一人の方の証に大きな感動を覚えました。明けない夜はないというタイトルの本であり、21人の方々の希望のドキュメントということで、一人一人のお話を紹介しているという内容の本であります。今日はその中の一人で末次尚子さんという方のお話です。


尚子さんには弟さんがいました。博文さんという名の弟さんです。弟が生まれてくるまでは、長女で初孫で、家族に大切にされ、これからもお姫様のように育てられるはずでした。しかし弟の博文さんの誕生とともに、その生活が一変してしまったということです。


博文さんがこの世に誕生してなんと半年後に難病にかかっていることが判明しました。血友病という病です。血が出ると止まらないという難病です。しかもその中でも重度の病であり、出血をしたら輸血をしないと全身の血が流れ出てしまうという大変な病気にかかっていることが分かったのです。その時から姉である尚子さんの生活は弟のサポーター役に一変してしまいました。


母トミエさんの苦労は如何程のものであったか、入退院を繰り返す息子に付き添い、産んだ自分を責めることもあり、ある時は息子を殺して自殺をしようとまで追い詰められることもあったということです。


しかしそのような弟が病院に行くたびに、主治医の先生がこう言ったということです。この子の笑顔は天使のようだなあ。母のトミエさんの切羽詰まった思いを救ったのは、間違いなく弟の笑顔だったということです。そんな中、全てが弟を中心にした生活となり、姉の尚子さんは満たされない子供時代を過ごし、弟への妬みとか、両親への不満とか、そして世間を見返したいという怒りが常にあったとのことです。


ところがそんな姉と弟に転機が訪れました。弟の博文さんはやがて淀川栄光教会の作業所で働き始めることになり、そこで彼はイエスキリストを信じるようになりました。そして熱心に姉を教会に誘うようになりました。


尚子さん自身は一応礼拝に出席はしていたのですが、人も自分も信じられない自分であり、ほとんど居眠りしながら隠れるように座っていたということです。しかし時々耳に入るメッセージの言葉に涙することもあったということです。


やがて時がたち、母のトミエさんが肺の病気で亡くなりました。葬儀は教会で営まれます。葬儀の中で牧師先生が説教の時間にこう語りかけたということです。神様は障害者の博文さんを目的を持って、神様の目からは最高の作品としてお造りくださった。そしてお母さんは、この女性ならこの子を任せても大丈夫だと、多くの女性の中から選ばれた、強くて素晴らしいお母さんです。


それを聞いて尚子さんは大変驚きました。母は苦しみ抜いた被害者ではなかったのか。その時に初めて心から母を誇りに思えたということです。自分の人生も弟によって犠牲になっていたと思い込んでいたけれども、違うのかもしれない。そう思えるようになっていくのです。その後時を移して、尚子さんは神様の愛に触れられ、子供のように泣きじゃくりながら、神様の胸の中に飛び込んでいくことになります。2002年元旦に洗礼を受けました。


その後弟の博文さんは2007年9月に42歳で天国に召されます。この年齢まで生きられたことは奇跡だと言われ、42年間診療を続けてくれた病院スタッフの皆さんが整列して、彼のことを見送ってくれたということです。

 

ポッカリと穴があいたような気持ちを整理するため、尚子さんは小冊子愛は止められないを制作しました。その中でこう綴っています。思えば弟がいたから家族はつながっていたのです。弟が笑うとみんなが幸せになった。弟は、家族の重荷のはずが、実は要だったのです。イエス様はわたしを愛してくださり、弟を通して家族を導いてくれていました。彼は最後まで力一杯生き、命をかけて家族を導いてくれました。死ぬために生まれてきたようなその姿が、イエス様の姿と重なりました。とお話はここまでになります。なんと感動的なお話でしょうか。

 

このお話を聞きながら、皆様の中に色々と考えさせられることがあるのかと思います。私が特に教えられた部分を言えば、弟さんは家族の重荷ではなかったということです。確かに弟さんの病気によって、普通の家族では払う必要のない犠牲というものを多く払わなければならなかったでしょう。苦しかったでしょう。切なかったでしょう。お母様の気持ちを思えば胸が締め付けられるような思いになります。


しかし姉の尚子さんが気づいたことは、弟は重荷なんかじゃなかった。逆です。弟は私たち家族に幸せをくれる存在であった。母は息子に対してどれだけ申し訳ない気持ちでいたか。もちろん母の責任ではありません。しかし親とはそういうことだと思います。子供の弱さを見ながら、自分の足りなさを思ったり、申し訳ないという気持ちでいっぱいになるのが親だと思うのです。


しかしそれにも関わらず息子さんは笑ってくれるのです。申し訳ない気持ちでいっぱいの家族に対して、そんなことないよと言わんばかりに、笑顔を振りまいてくれるのです。その笑顔はもちろんプライスレス。どれだけ慰められ、励まされ、希望となることができたでしょうか。間違いなく博文さんという存在は、高価で尊い宝物のような存在だったのです。今日はじめに読んだ聖書の1節をもう一度読みたいと思います。

イザヤ43章4節

わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

 

神様の目から見るとき、この世界に生きる全ての人々が高価で尊い宝物であると教えています。もしかしたらこの世の価値観で考える時に、弱くて、足りなくて、愚かで、取るに足りない存在であると考えることがあるかもしれません。周りと比べるときに、劣等感というものを感じてしまうことがあるでしょう。自分が自分を考えた時に、高価で尊い存在とは思えない。価値のある人間だとは思えない。生きている意味があるのだろうかと思えてしまうことがあるのです。


しかし聖書はそう教えていません。この世の価値観で見れば劣っているとしても、足りなかったとしても、弱かったとしても、神の目にはそうではないと。あなたが今日も生きてくれているただそれだけで、神の目に高価で尊い宝物であると語ってくださっているのです。弱くても良いのです。足りなくても良いのです。人様に迷惑をかけてしまうような人間でも良いのです。目に見える条件は一切関係なく、神の目にあなたは今日も高価で尊い宝物として生かされているということです。今日も生きてください。宝物として、高価で尊い価値のある存在として、胸を張って生きてくださることを願っています。


最後に一言お祈りします。愛する天の父なる神様、新しく与えられる1日の初めにあって、私たちに高価で尊い価値のある宝物だと語ってくださることを感謝します。今日も一日そのような者としてふさわしく生きられるようにしてください。イエスキリストの尊きお名前を通してお祈りいたします。アーメン 。