聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

私達の関心事はどのようなものか

今日の聖書黙想 21年3月5日

聖書箇所 マタイ20章17〜34節

 

まず今日の聖書箇所は、

エス様がご自身のこれから起こることについて、

そのことを詳細に語っておられます。

 

・祭司長たちや律法学者たちに引き渡される

・彼らはイエスを死刑に定める

・異邦人の手に引き渡される

・嘲られ、むちで打たれる

・十字架につけられる

・しかしその後三日目によみがえる

 

この内容というのは、

実はイエス様がこの地上に来られた、

メインとなる目的でありました。

 

エス様が来られたのは、

全人類の救いの完成を成し遂げるためです。

そのためには十字架の死と、

その後のよみがえりが重要となるのです。

 

すなわちイエス様とは、

十字架で死なれるために来られたのです。

しかし死なれたイエス様は三日目によみがえるのです。

 

私達の信仰の中心はここにあります。

 

エスキリストの十字架の死と復活です。

 

これがなければ私達の信仰の中身はありません。

信仰の中心は十字架と復活にあるということです。

 

ここでイエス様が改めて弟子たちだけを呼び寄せて、

この重要なことについて語られたということです。

 

しかし問題は何かというと、

弟子たちはこのことに全く関心を示すことはありませんでした。

 

この時の弟子たちの関心は何であったのか。

誰が一番偉いのか、

誰が一番地位が高いのか、

という関心であったということです。

 

エス様の右と左に座す者は誰か。

これが弟子たちの関心事でありました。

 

エス様の十字架の死とか復活とか、

とても重要な話をされている中で、

弟子たちは全く別のことを考えていたのです。

 

ここから今日私達に教えられることは、

私達の関心はどこにあるのかということです。

 

私達が現在関心を持っていることは、

父なる神様の御心と繋がっているか、

神様の関心と一つになっているのかです。

 

すなわち私達の関心事が、

焦点が自分に向けられているものか、

それとも神様に向けられているものか、

それを考える必要があるということです。

 

弟子たちの関心事は、

単に自分に焦点を向けているものです。

誰が一番偉いのか、

誰が一番高い地位にあるのか、

自分の欲を満たすための関心事であります。

 

しかしイエス様がここで語られた重要なことは、

天の父なる神様の御心を成すという関心事です。

十字架の死と復活は父なる神様の御心であります。

そこにイエス様はいつも焦点を当てていたのです。

 

私達の持っている関心事が、

父なる神様の御心という部分に、

焦点があてられているかということです。

 

食べるにも飲むにも何をするにも、

神の栄光のためにするとパウロは言いました。

 

どんな関心事を持っても大丈夫です。

しかし一つだけ注意をしなければならないことは、

その関心事が主の栄光に繋がるかどうかということです。

神様の喜ばれる関心事であるのかということです。

 

現在私達が持っている関心事が、

神様の栄光のためにどのように用いられますか。

 

単に自分に向けられたものであるならば、

その思いを私達は変えていくことが求められます。

 

生きるも死ぬも主の栄光のため。

食べるも飲むも主の栄光のため。

私達の人生のすべてが、

主の栄光のためであるように、

そのことを願っているのであります。