聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

いのちと平安をもたらすキリストの福音

今日の聖書黙想 20年8月8日

聖書箇所 ローマ8章1〜11節

 

まず1節の御言葉ではこう宣言されています。

 

 

ローマ8章1節

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が

罪に定められることは決してありません。

 

 

キリスト・イエスにある者、

すなわちキリストの福音を信じ受け入れた者は、

罪人として定められることはないということです。

 

キリストの福音を信じ受け入れるならば、

その人は罪人という状態から救われて、

永遠の命を得る祝福に至ることができます。

 

キリストの福音を信じる道のみが、

私たちを罪人という状態から救うことができます。

 

何故でしょうか。

2節以降にそのことが記されています。

 

 

ローマ8章2節

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、

罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

 

 

本来私たちは罪と死の原理によって捕らえられていました。

しかしそれはキリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、

解放を与えてくださったということです。

 

私たちが今日知るべきことは、

私たちの真のいのちはイエス様にあるということです。

 

エス様こそ私たちを真に生かすことのできるいのちです。

 

だからもし私たちがキリストの福音を信じるのならば、

その人の中にキリストにある真のいのちが入ることになり、

本来罪と死の奴隷となっていたという状態から、

完全なる解放を得ることができるということです。

 

ではなぜ私たちは罪と死の奴隷となっていたのでしょうか。

 

 

ローマ8章3節

肉によって無力になったため、

律法にはできなくなっていることを、

神はしてくださいました。

神はご自分の御子を、罪のために、

罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、

肉において罪を処罰されたのです。

 

 

ここを通して分かることは、

律法という神からの御言葉がありますが、

それを私たちが肉の力において成し遂げることはできない、

私たちの努力とか頑張りにおいて律法を守り行うことはできない、

ということを教えている内容であります。

 

そうです。

私たちは自分たちの力のみで、

神の律法の通りに生きることは不可能です。

 

確かにこの世界には良い人はいます。

人々から認められる素晴らしい人は存在します。

 

しかし神の義という観点から考える時に、

そこに到達しきれる人はいません。

 

この世にあってはどれだけ良い人であり、

称賛を受けるような人であったとしても、

神の御前でその行いを誇られる人は一人としていない、

神の目から見て全てが罪人であるということです。

 

ゆえに私たちは自分たちの努力によって、

神の律法を成し遂げることはできません。

神の義を得るためには私たちの努力によりません。

 

しかし神はそのような私たちの弱さを知っていて、

ご自分の御子であるイエスキリストを世に送り、

律法の要求をまっとうできない私たちの身代わりとさせて、

肉において彼を処罰したということです。

 

律法の要求をまっとうできないのは私たちです。

ゆえに裁かれるべきは私たちの方であります。

 

しかし私たちがその裁きを受ける代わりとして、

エスキリストがその裁きを受けてくださったのです。

 

それがイエスキリストの十字架の意味であります。

 

エスキリストが十字架の上で死なれた理由、

それは私たちが本来罪人であるがゆえに、

受けなければならなかった刑罰であります。

 

それを私たちが受ける代わりとして、

エス様が受けてくださったということです。

 

それによってこれ以上私たちは、

罪の故の刑罰を受ける必要がなくなったのです。

 

エス様が私が受ける刑罰を身代わりに受けてくださった、

罪人である私たちのために十字架で死んでくださった、

そのことを信じることです。

 

そのことを信じるならば、

信じる信仰によって私たちは救われるのです。

罪と死の原理から解放された者として、

いのちの御霊を持つ者として救われるのです。

 

 

ローマ8章4節

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、

律法の要求が全うされるためです。

 

 

ここでは何を教えているのでしょうか。

 

肉に従って歩まず、

すなわち自分の努力とか頑張りによってではなく、

御霊に従って歩むということを通して、

すなわちキリストの福音を信じることを通して、

律法の要求が全うされたとして認められるということです。

 

律法の要求が全うされていくとは、

神の律法の通りに生きた者として、

神によって認められるということです。

 

肉の行いによって今だに罪人であります。

律法の要求を守り行えない者であります。

 

しかしそうであったとしても、

キリストの福音を信じることによって、

キリストの十字架の贖いを受け取ることによって、

その人は律法の要求を全うした人として、

神から認められることを教えているのです。

 

なんと感謝なことでしょうか。

 

私たちが罪と死の原理から解放されるためには、

私たちの側でできる努力は何一つもないのです。

ただ私たちの身代わりとなって刑罰を受けられたお方、

エスキリストの福音を信じさえするならば、

その人は救われて真のいのちを得ると教えています。

 

 

ローマ8章5節

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、

御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。

 

 

私たちが神の律法に従って生きるようになるためには、

私たちが御霊に従って生きる者となることにあります。

 

何度も繰り返すようですが、

私たちの肉の行いによってそれができるのではありません。

それは全くもって不可能なことであります。

 

まるで自転車を漕いで太平洋を横断するというような、

あり得ない挑戦と同じことであります。

 

私たちの努力によって頑張りによって、

神の義に到達することはできません。

神の律法の要求を全うするためには、

ただ御霊に従って生きることであります。

 

すなわちキリストの福音の中で生きることです。

 

その人は律法の要求を全うする生き方として、

自然と変えられていくようになるということです。

 

 

ローマ8章6節

肉の思いは死であり、

御霊による思いは、

いのちと平安です。

 

 

肉によって頑張って生きようとしても、

決して真のいのちに達することはできません。

すなわち律法の要求を全うすことはできません。

 

ただ御霊による思いの中で生きることのみ、

すなわちキリストの福音を信じる信仰のみが、

私たちにいのちと平安をもたらしてくれるのです。

 

最後にもう一つだけ御言葉を読みます。

 

 

ローマ8章11節

もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、

あなたがたのうちに住んでおられるなら、

キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、

あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、

あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

 

 

キリストの福音を信じさえするならば、

ただそれだけで私たちは永遠のいのちに至ります。

 

キリストの福音を信じることによって、

私たちに起こる変化は何かというと、

御霊が私の中に住んでくださることです。

 

キリストを十字架の死からよみがえらせた神の御霊が、

福音を信じる私たちの中に住んでいてくださるのです。

 

そしてキリストが死の中からよみがえられたように、

私たちも死んで終わりではないという祝福、

永遠のいのちという祝福に預かることになります。

 

キリストの福音を信じることのみが、

私たちに永遠のいのちを可能とするのです。

 

今日私たちの中にいのちと平安が溢れていますか?

今一度キリストの福音について思い起こし、

いのちと平安があふれる日々を過ごせることを願うのです。