聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

神の義を慕い求める喜び

今日の黙想 20年8月10日

聖書箇所 ローマ8章12〜17節

 

まず今日の御言葉にはこう書かれてあります。

 

 

ローマ8章12節

ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。

肉に従って生きなければならないという、

肉に対する義務ではありません。

 

 

私たちには義務があるということです。

私たちとは誰のことを教えているかというと、

キリストを信じて罪と死の原理から解放された人です。

すなわち神の義が与えられ救いを受けた人のことです。

 

そのような私たちには義務があると教えます。

 

どのような義務があるということでしょうか。

まず一つ言えることは肉に対する義務ではありません。

 

すなわちこのことの意味は、

肉の力によって律法を全うせよ、

あなたの努力とか頑張りによって、

神の御言葉に従えではないということです。

 

それは私たちの力では不可能なことです。

 

律法の要求を全うするということは、

具体的に同意ことを教えているのか。

 

それは全ての律法に従うということです。

一つぐらいは従うことができなくても良いか、

ということではないのです。

 

律法の要求を全うして神の義を得るためには、

全ての律法の内容を全うしなければなりません。

 

しかし残念なことに、

私たちにそれをすることは不可能です。

人間の力でそれをはたしえることはできません。

 

だから私たちにとって一つ重要なこととして覚えるべきは、

肉の力によって律法の要求を全うさせようとする必要なない、

そのような義務は私たちに課せられていないということです。

 

そのような義務が課せられたとしても、

それは私たちにとって不可能なことなのです。

 

だからこそ私たちには助けが必要なのです。

そしてその助けが具体的な形として現れたのが、

エスキリストの十字架の贖いであります。

 

エスキリストが私たちの身代わりとなって、

律法の要求を完全に全うしてくださったのです。

 

律法の要求を守り行うことのできない私たちの代わりに、

罪から来る報酬である死という報酬を完全に受けられたのです。

それによって律法の要求を完全に全うしてくださり、

それを信じる私たちも律法の要求が全うされた者として、

神によって認められるということが起こったのです。

 

私たちは肉の行いによって、

律法の要求を全うできるのではありません。

 

ただイエスキリストを信じる信仰によって飲み、

律法の要求を全うしていくことができるのです。

 

 

ローマ8章13節

もし肉に従って生きるなら、

あなたがたは死ぬことになります。

しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、

あなたがたは生きます。

 

 

ここで明確に教えています。

肉に従って生きるということならば、

その結果は死でしかないということです。

 

そうです。肉の行いによって、

すなわち私たちの努力とか頑張りによって、

律法の行いを要求させるということならば、

その結果は死でしかないということです。

 

何故ならば私たちの力によってでは、

律法の要求を全うすることはできないからです。

 

律法の要求を全うできないということは、

罪人として神の裁きを受けなければならないのです。

罪から来る報酬は死であるという御言葉に従ってです。

 

しかしももし御霊によって体の行いを殺すなら、

あなたがたは生きますと教えています。

 

キリストの福音を信じることによって、

その人の中には御霊が住むことになります。

御霊が私たちの中で生きることになるのです。

 

御霊によって生きるということになれば、

私たちは自然と体の行いを殺すことになります。

体の行いとは神に喜ばれない行いです。

一言で罪人としての生き方であります。

 

肉の力では罪人としての生き方に勝てません。

しかしキリストの福音を信じることによって、

その人の中に御霊が生きるようになる時に、

その人は自然と罪人としての生き方に勝利し、

義に道を生きる者として変えられることになります。

 

 

第2コリント5章17節

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。

古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 

 

キリストのうちに生きる時に、

すなわちキリストの福音を信じ受け入れる時に、

その人は完全に新しい人として生まれ変わるのです。

 

ここで重要なポイントは、

少しばかり成長できましたではありません。

良い人間に少しはなれたかなと思います、

というそんなレベルではないということです。

 

新しく造られた者です。

新しく生まれ変わった者です。

 

成長しましたではなく、

新しく生まれ変わったのです。

完全に新しい人に変えられたのです。

 

古いものは過ぎ去った人として、

すなわち罪人としての姿が過ぎ去り、

神の義に生きる新しい人として、

完全に生まれ変わりましたということです。

 

キリストの福音を信じることによって、

すなわち私の罪のために十字架で死なれ、

三日目に復活されたキリストの福音によってのみ、

私たちは律法の要求が全うされた者として認められ、

神の義を得た者として神から認められることになります。

 

エスキリストの福音を信じる信仰だけが、

私たちに神の義を得させる力となるのです。

 

そしてこの福音を信じて御霊を受けた私たちは、

これからも神の義の中で生きることを喜びとし、

そこに生きることを慕い求めることになります。

 

もちろん信じて救われたとしても、

完全に義人としての歩みができるかと言えば、

決してそんなことはありません。

 

今だに神の心を悲しませるような、

そんな罪を犯してしまう者であります。

 

しかしキリストの福音を信じて、

御霊を受ける以前とは決定的に違うことがあります。

 

それは罪の中に留まり続けることはできない、

罪の中にいることが苦しみとなるということです。

 

信じる以前においては、

このような葛藤はありませんでした。

 

しかし御霊を受けた私たちには、

決定的なこのような変化が起こるのです。

 

罪の中に留まることが苦痛となります。

神の義の中で生きることが喜びとなります。

 

古い罪人としての姿は、

キリストの福音を信じる信仰によって、

完全に過ぎ去ってしまったからです。

 

今日も1日キリストの福音を持つ者として、

神に義を慕い求める喜びを感じながら生きること、

このことを願っているのであります。

 

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