聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

ポッドキャスト日々新しく#09 子は親の鏡

ポッドキャスト『日々新しく』平日毎朝6時更新しています。

聖書からのメッセージを10分ほどで語っています。

こちらにはメッセージの原稿をそのまま掲載させていただきます。

音声で聴きたい方がおられましたら下記のリンクからどうぞ!

 

Love Joy Peace Church キリスト教会: 日々新しく#09 20年8月20日 on Apple Podcasts

 

早速今日のメッセージですが、まず今日の聖書の1節を紹介したいと思います。

第二テモテ3章16節 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

今日はこの1節から、子は親の鏡というテーマでお話ししていきます。

 

子供はスポンジの様に親の言葉や行動を吸収して学びます。子は親の鏡です。不平不満ばかり言う親は、その子も不平不満ばかりを言う子に育ちます。怒りや憎しみを持っている親の子は、怒りや憎しみを持ちながら育っていきます。自信のない親は、子も自信ありません。

 

問題がどこにあるのかというと、親にあるという事です。子は親を見て育つのです。すなわち親がその子に対してどういう種を蒔いてきたのかという事であり、子は親が蒔いてきた種の収穫の実であるという事です。

 

だから子供に代わってほしいと願うならば、親がまず変わる事です。子供にこういう人間に成長をしてほしいと願うのならば、親がその為のモデルとなることです。

 

時に親は子を見てがっかりする事があります。何故ならば明らかに親である自分の悪い部分と同じものを持っていることを発見するからです。親の似て欲しくないと思える部分が、見事に子に継承されているということです。

 

家の中でポテチを食べながら、ソファーに横になってテレビばかりを見ている親が、勉強のできる子に育ってほしいと思ってはなりません。もしそう願うのならば、その親も勉強熱心であることは必要です。家の中で口を開けば不平不満ばかりを言っている親が、感謝のできる子に育ってほしいと思ってはなりません。まず先に親の口から不平不満を取り除く事です。そしてどんな小さなことでも感謝することを実践していくことであります。

 

これは実際私たちも経験していたことであると思います。例えば親の悪い部分を見つけて、自分は絶対にこうはならないぞと決心していたとしても、いざ大人になったらそれをしっかりと受け継いでいたということです。こうはなりなくないと思っていたことを、そのまま自分も子供にしてしまっているということです。

 

だからもし、子供の悪い部分が見えたのならば、それは子を責めるよりもまず、親が悔い改めなければなりません。子の悪い部分を見て怒る前に、まず親が大いに反省をしていかなければならないということです。親が変われば子も変わります。子供が育っていく上でそこがどの様な環境であるのかという事はとても大切な事なのです。

 

しかし同時に私たちが知っている事は、そんな事は頭ではわかっていても、実際には難しいという事です。そうです。実は人間とは、頭ではこうありたいとわかっていても、実際そう生きることは簡単ではないということです。もっと優しい人間になりたいと思っているのです。しかしできないのです。もっと努力する人間になりたいと思っているのです。しかしできないのです。もっと痩せなければばならないとわかっているのです。しかしできないのです。実行に移せないのです。実は私たちは、自分の力で自分を変えていくという事は本当に難しい事なのです。それが簡単ならばとっくに変わっているはずです。

 

それではどうすれば良いのでしょうか。私が変わっていくために、私ができる事は何でしょうか。今日の一緒を読んでみましょう。

第二テモテ3章16節 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

聖書の言葉とは、私たちにとってどの様な影響を与えてくれるのかがわかります。それは、私たちを教えます。戒めます。矯正し、訓練してくれるという事です。これが聖書が与えてくれる影響です。

 

私たちは変わりたいと思っても、それを自分の力で変えていく事は中々できません。それゆえに私たちには聖書の言葉が必要であるという事です。別の聖書箇所にはこうあります。神の言葉は生きていて力があると。

 

そうです。聖書の言葉には力があります。聖書の言葉は単なる読み物ではなく、私たちの人生に直接的な影響を与えるものです。もし聖書の言葉と私が出会っていなかったら、私が現在アメリカにいるという事はなかった事でしょう。この場所で教会を始めるなんて考える事できなかったでしょう。

 

何故ならば、私にはそれに相応しい資格も力も持っていないと思っているからです。私はそれをするのに足りる人間ではないと考えていたからです。実は私は劣等感の塊みたいな人生を生きていたのです。どうせ自分には何もできないと、これからも普通に生きることができればそれで良いと考えていたのです。人生にビジョンも目標も全くありませんでした。しかし聖書の言葉と出会って、その様な私の心が変えられたのです。私が今までの人生の中で最も大きな影響を受けた言葉を紹介します。マルコ9章23節です。こう書かれてあります。できるものならと言うのか、信じる者にはどんなことでもできるのです。

 

そう。私にはできません。私は何者でもありません。しかし私にはできなくても、私とともにいる神様にはできる。私は一人ではない。私一人ならば簡単に倒れます。しかし何でもできる神様が一緒にいるから、私は倒れる事はないと信じたのです。いわば、この言葉が私の考えを変えてしまったのです。私にはできるという思いを与えてくれたのです。これが聖書の力です。

 

だから心配しないてください。あなたにできなくても大丈夫です。あなたとともにいる神様に出会うことができるならば、その神様が私たちを変えてくださいます。神様の言葉が私たちを理想に近づく者として変えてくだれるのです。

 

私たちの教会で聖書と出会い、イエスキリストを信じ洗礼を受けた人々からよくこういうことを聞きます。聖書と出会って、神様を信じるようになって、感謝がわかる人になったということです。今までは怒りとか不平不満ばかりだった。しかし感謝がわかる人に変えられたと。そうです。聖書は私たちを変える力があります。私は私を変える事はできません。しかし聖書はこう言います。できるものならと言うのか。信じる者にはどんなことでもできるのです。そしてそれが子供たちにも、子供たちだけではない、私たちの周りにいる人々への良い影響となっていくのです。

 

今日どうでしょうか。子供たちのために、また周りに生きる人々のために、良いモデルとなって生きていきたいと願っている方はいるでしょうか。どうか、聖書を読んでみてください。神の言葉に私を変える力があるのです。


最後に一言お祈りいたします。天の父なる神様、子供たちに対して、周りにいる人々に対して、良い影響を与えることができるモデルとして、私自身を今よりさらに良い者として造り変えてください。イエスキリストの尊きお名前を通してお祈りいたします。アーメン 。