聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

天の御国のルールは不公平? 今日の聖書黙想

今日の聖書黙想 21年3月4日

マタイ20章1〜16節

 

今日の聖書箇所では、

朝9時から働いた者に対して、

また午後5時から働いた者に対して、

同じ労働賃金が支払われたとあります。

 

当然朝9時から長い時間働いた者にとっては、

心穏やかではいられない不公平極まりないと思える、

状況であったと言えるのです。

 

何故ならば長い時間働いた自分と、

5時から来て僅かの時間働いた者と、

同じ1デナリという金額の支給がなされたからです。

 

労働の時間が終わって賃金が支払われる時に、

まず午後5時から働いた者への支払いが行われました。

みると1デナリの賃金が支払われたということです。

 

朝早くから来た人は当然期待するでしょう。

わずかの時間しか働いていない者が、

1デナリという賃金を受けているのだから、

もっと長い時間働いた自分には、

その分多くの賃金が支払われるだろうと。

 

しかし彼にも同じく1デナリが支払われました。

 

これは不公平だーーーー

と叫ぶたくなる気持ちはわかりますよね。

 

しかし注目をしなければならないことは、

雇い人は朝9時から来た者に対しても、

午後5時から働いた者に対しても、

同じく1デナリという契約を結んでいたのです。

つまり雇い人からすれば契約のとおりに、

賃金の支払いを行ったまででありました。

 

それをわかっていたとしても、

それでも不公平だーーーと

叫ばずにはいられないと思います。

 

もし明日も働く機会があれば、

自分は午前9時から働くという、

そんな愚か者にはならないと決心したでしょう。

午後5時から働く利口な者となるという決心です。

こんな不公平な話はないということです。

 

しかしこれがこの世と天の御国の

価値観の違いであるということです。

 

この世の価値観に置いては、

多く働く者が多くを得るということです。

多くの努力が多くのリターンを得るということです。

 

しかし天の御国の価値観ではそうではないのです。

 

どれだけ多く働きたのか、

もっと言えばどれだけ多くを持っているのか、

どれだけ素晴らしい働きをし業績を残したのか、

どんな地位や名誉を得ているのか

どれだけ人気があり称賛を受ける者であるのか、

 

それらによって報酬が多いか少ないか、

それを決定することではないということです。

 

たとえ周りにいる人々よりも、

持っているものが少ないとしても、

労働時間が足りなかったとしても、

何ができてもできなかったとしても、

 

与えられる報酬は全く同じである

 

これが天の御国の価値観であります。

 

多く持っている人が更に多くを得るという

資本主義的な価値観ではなくて、

持っている人も持っていない人も、

平等に与えられるという価値観こそが、

天の御国の価値観であるということです。

 

この世においては、

圧倒的な努力や作業の結果として、

圧倒的な勝利者となれる仕組みがあります。

 

しかし聖書においてはそうではなく、

エスキリストにある者はただそれだけで、

 

圧倒的な勝利者であると教えているのです。

 

もちろん勝利者の定義の違いがあります。

前者は資産をどれだけ得るかによって、

または有名になるとか権力を得るとか、

それらによる勝利者という定義があると思います。

 

しかし聖書ではこう教えているのです。

 

たとえ全世界を手にしても、

まことのいのちを損じたならば、

それが何になるのだろうか。

 

聖書が教える真の勝利者とは、

まことのいのちを得ることにある

そう教えているのであります。

 

そしてこの真の勝利者となるためには、

誰か特別な人だけがなれるのではなく、

誰でもどんな人でも持っていてもいなくても、

得られるものであると教えているのであります。

 

では最後に、

聖書が教える真の勝利者となるために必要なこと。

 

それは唯一つです。

 

エスキリストを我が救い主として信じることです。

 

ただ唯一これだけを行うことができるならば、

その人は真の勝利者として生きることになるのです。

 

最後に聖書の御言葉を一つ紹介して終わります。

 

 

ローマ人への手紙8章37節

しかし、私達は、私達を愛してくださった方によって、

これらすべてのことの中にあっても、

圧倒的な勝利者となるのです。

 

 

真の勝利者として、

圧倒的な勝利者として、

今日も一日生きることを願っているのです。