聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

後ろを忘れ前に向かおう 前進できない2つの理由

今日は後ろを忘れ前に向かう生き方、

というテーマで記事を書こうと思います。

 

※こちらの記事は約4000文字となっています。

 

テーマとなる聖書の御言葉はこちらです。

 

ピリピ3章13〜14節

13 兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 

 

13節の後半部分に記録されている、

 

うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

 

という部分に注目して考えようと思います。

 

 

 

はじめに 前に向かって生きた人 ヨセフ

聖書の中に一つこういうお話があります。

ヨセフという人物についてのお話です。

 

彼はヤコブという父の家に生まれました。

彼には上に11人の兄がいて、

彼自身は下から二番目の息子でした。

 

聖書を見れば父のヤコブは、

12人いる息子の中でも特に、

ヨセフを愛していたということです。

ヨセフだけに特別な洋服も分け与えていました。

 

当然ほかの兄弟たちの心は穏やかではありません。

いつしか父の特別な愛を受けているヨセフに対して、

恨みを抱くようになってしまうということです。

 

やがてその恨みが具体的な形として現れ、

金と引き換えにヨセフを外国へ売り渡してしまうのです。

 

その結果ヨセフは全く知らない異国の地で、

しかも奴隷という立場で生きることになります。

それがエジプトの地でありポティファルという人の家でした。

 

しかしヨセフはそこで熱心に生きます。

与えられている仕事を熱心にこなしていき、

やがてポティファルの信頼を得ていくことになり、

ヨセフはポティファルの財産を管理する立場に昇格します。

 

財産が預けられるということは相当の信頼を得たということです。

 

ヨセフは彼が置かれている現実を見るときに、

兄たちを恨むこともできたし憎むこともできたし、

何よりもこんな状況を許される神を疑うこともできました。

 

しかし重要なことは、

ヨセフはそれを選択しませんでした。

恨みとか憎しみとか疑いとか、

否定的な部分を選択することはしません。

 

彼の選択はそれでも神を見上げて、

与えられている立場で熱心に生きるのです。

 

すなわち今日の聖書の言葉を使うならば、

後ろのものを忘れ前に向かう生き方を実践しています。

 

実はヨセフの人生にはこの後にも、

山あり谷ありの実に波乱万丈な人生を送ります。

 

しかしどういう状況にあっても、

ヨセフは憎しみとか恨みとか失望とか、

そのような否定的なものを選択せずに、

 

いつでもどんな時でも彼は変わることなく、

与えられている立場で神を見上げ熱心に生きるのです。

 

そんな彼は最終的にエジプトの総理となります。

王であるパロの次に位の高い地位を得ることになり、

エジプトだけではなく周辺諸国にも影響を与える人物として、

何よりもヨセフは後に父や兄弟たちとの再会を果たし、

家族が一緒にエジプトで平安に暮らすことになるという、

驚くべき祝福を得て生きることになっていくのです。

 

それはもちろん神の恵みの故でありますが、

ヨセフがひとえに正しい選択をしたことにあるのです。

 

すなわち後ろのものを忘れ、

ひたむきに前に向かう生き方を、

実践していったことにあるということです。

 

このようなヨセフの生き方から、

今日私たちも学びたいと願うのです。

 

すなわち前に向かう生き方です。

 

後ろを忘れ前に向かう生き方の中にこそ、

私たちに明るい未来への希望を見せてくれます。

 

でも現実としてどうでしょうか。

私たちはそのように生きているでしょうか。

 

多くの場合前に向かうことのできない、

そんな人生を生きているのではないかと思います。

 

私ももちろんその一人です。

 

そこで今日は前に向かう人生を生きる為に、

私たちに必要なことを学ぼうと思います。

 

前に向かうことのできない理由は何か

私たちが前に向かうことのできない理由は何か、

それを二つの視点で考えていこうと思います。

 

過去の失敗とか出来事に捕われている。

過去の失敗に捕われていることによって、

私たちは前に向かって進めないということが起こります。

 

例えば私は現在キリスト教会の牧師をしているのですが、

私がもっと自信を持って牧師としての働きを進める為に、

一つの思いがそれを阻んでいるのではと思わされています。

 

その一つの思いとは、

過去にあまり勉強をしてこなかったという、

私の中にある一つの劣等感であります。

 

私は子供の頃から勉強があまり好きではなく、

読書とかも自ら好んですることはありませんでした。

大人たちの忠告の言葉も無視しながら生きるような、

自分さえ楽しければという思いの中で生きていました。

 

もちろんその楽しさとは、

私の肉の思いを喜ばせる楽しさであり、

ある意味正常的な楽しさではありませんでした。

 

そんな私がキリスト教会の牧師になり、

現在に至るまで15年勤めてきたのでありますが、

いつもこの勉強してこなかったという思いが、

私の心に自信を失わせてしまうということです。

 

今日の御言葉から考えるならば、

いつまでもそのような思いに捕らわれずに、

勉強してこなかったのならば今からやれば良い

ということになると思うのでありますが、

 

どうしても私の中で、

今からやっても遅いのではないかという、

そのような否定的な思いが芽生えてくるのです。

 

しかし今日もう一度この御言葉を読みながら、

そう今からまた勉強を始めれば良いという、

今日からがまた新しいスタートであるという、

そのような思いが再び与えられていくのです。

 

私たちが前に向かうことができないならば、

その理由の一つ目として、

過去の失敗とか出来事に捕らわれていることです。

 

続いて二つ目について確認しましょう。

 

将来に対する不安を持っている

将来に対する不安を持っているならば、

私たちは中々前に向かうことができません。

 

人は多くの場合において、

起こり得るはずのないことまで心配して、

前に向かって生きることができないということです。

 

例えば私の場合で言うならば、

教会に人々を集めていくことのために、

様々な企画を練って実践しようとします。

 

しかし今までも様々な企画を練って、

実際開催をしてきたのでありますが、

多くの場合人を集めるという部分において、

失敗をしているということです。

人が思うように集まってくれないのです。

 

そこでさらに新しいことを企画しようとしても、

どうせ今回も人は集まってくれないだろうという、

ある意味確信的な思い?笑

の中で何もできなくなってしまうという、

前に向かうことを躊躇してしまうということです。

 

もちろんしっかりと考えることは大切です。

 

しかし身動きができなくなるほど、

考え過ぎてしまうのは問題であります。

 

やらなければわからないということがあるのです。

 

実際私たちの教会の韓国料理教室の集まりは、

現在はもちろんコロナの問題でお休みですが、

しかしほぼ12年ほど毎月一度集まって、

だいたい毎回10名ほどのかたがたと共に、

楽しい時間を過ごす機会を持っています。

 

将来のことをあまりにも考え過ぎてやらないよりは、

とりあえずやってみるという考えが正しかったりして、

例えば10発打てば1発は当たるみたいな体験をします。

1発も打たなければ何も起こらないということです。

 

考えることはもちろん否定しません。

 

考えるべきです。

作戦を練るべきです。

 

しかし多くの場合起こり得ないことまで心配し、

身動きが取れなくなるということがあるのです。

 

心配しすぎる思いを脱ぎ捨てて、

前進をしていくべき時があります。

 

結論 前に向かって進め

最後にイエスキリストの人生を考えましょう。

エスキリストこそ前に向かっていく人生でした。

 

彼は最終的に十字架という刑罰にまで向かっていきます。

その先にあるのは死であると知りながらも躊躇しません。

歩むべき道をひたすら前に向かって歩んでいくのです。

 

実際キリストは十字架にかかります。

そして十字架上で死んでしまうことになります。

 

しかし聖書では驚くべきことを教えていて、

キリストは死で終わったお方ではありませんでした。

なんとその後三日目によみがえられたということです。

 

死という最終的な敵にも勝利をして、

よみがえられたということです。

 

ここで一つ明確にされることは、

よみがえりという偉大な奇跡を体験するためには、

その前の十字架への歩みが必要だったことです。

 

十字架に向かって歩むという部分がなければ、

死は無かったしよみがえりもありませんでした。

 

これが信仰者に与えられている約束なのです。

 

私たちの人生にも失敗とか過ちは起こります。

不安に思っていた出来事が、

そのまま降りかかることもあります。

 

しかし私たちが知っていることは、

それら全てのことも益と変わるということです。

 

失敗が失敗のままで終わらず、

不安な状況が最終結末ではなく、

それらの状況をも益と変えられるという、

マイナスがプラスとなる体験というものを、

キリストを信じて生きる者に約束されているのです。

 

だから私たちは今日から再び、

何をも恐れることなく必要以上に心配せず、

ひたむきに前に向かって歩めば良いということです。

 

最後に一つ御言葉を引用しましょう。

 

ローマ8章28節

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。

 

過去の思いを振り切って、

将来の不安を脱ぎ捨てて、

今この時からまた新しい心で、

前に向かって歩めば良いのです。

 

失敗することもちろんあるでしょう。

不安な思いがそのまま降りかかることあるでしょう。

 

しかしそれら全てが益と変えられるという、

そのような体験を私たちはしていくはずです。

 

十字架に向かっていかなければ、

死もなくその後のよみがえりもありません。

 

前進していくときにこそ体験できる喜び

 

というものが私たちの人生には準備されているのです。 

 

これがキリストを信じる者の、

信仰であり確信であり希望であります。

 

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