聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

伝道したい!でも何を語れば良いの? 4つのステップ

今日書こうとしているテーマは、

福音を宣べ伝えようということについてです。

 

※約6500文字の長文です。

 

はじめに

 

まず聖書の御言葉を一つ引用します。

 

マルコ16章15節

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

 

これはイエスキリストが死の中から復活をし、

そののち天にあげられるまでの間に語られた、

キリストの弟子たちに対する大宣教命令です。

 

福音を全世界に伝えよという、

大宣教命令であります。

 

そしてこれは当時キリストの弟子として生きていた、

彼らにだけ語られている内容ではなく、

今この時代においてキリストを信じ救われた者に対して、

語られている重要な内容であるということです。

 

キリストを信じて救われた人々は、

このような使命を持って生きることであります。

 

すなわち福音を全世界に伝えるという使命です。

 

神の持っておられる計画は私たちが救われて、

永遠のいのちへと至ることであります。

 

しかし私たちが救われたということだけで、

神の持っている計画の全ては成就していません。

 

では神の持っておられる計画の全てとは何でしょうか。

 

それは私たちが救われることを通して、

さらに多くの人が救われるようにということです。

 

私だけが救われてそれで終わりではありません。

 

私が救われることによって、

私の周りにいる全ての方々が救われるようにと、

これが神の持っておられる計画の全てであります。

 

神は全世界に生きる人々が救われることを願っておられ、

そのためにまず私たちを先に救ってくださったのです。

 

だから先に救いへと導かれたクリスチャンは、

この使命をしっかりと握って日々を生きることです。

 

私を通して周りにいる方々が救われますように。

 

このような祈りと願いというものを、

私たちは常に持ち合わせていることが大切です。

 

もう一つ聖書の御言葉を引用します。

 

ローマ10章14節

しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

 

ここで特に注目するべき御言葉はこちらです。

 

聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。

 

私たちもそうだったように、

誰かがキリストの福音を伝えてくれなければ、

それを聞くことも信じることもできないのです。

 

私にも本当に感謝なことに、

キリストの福音を伝えてくれる人がいました。

 

もちろん聞いてすぐに信じたことではありません。

 

しかしこの聞くということから始まって、

キリストの福音を信じるに至ったということです。

 

私たちの周りにいる方々が救われるためには、

先に救われた私たちが語らなければなりません。

 

ではここで私たちが考えたいことは、

具体的に何を伝えたら良いのかということです。

 

福音を伝えれば良いということですが、

では具体的に福音の内容について、

何を語っていけば良いのかについてです。

 

4つのポイントで確認いたします。

・人は救いが必要な存在である

・具体的には神の裁きからの救いである

・神の裁きを受ける理由は人が罪人となったから

・イエスキリストによる救い

 

今日はこの内容を理解した上で、

多くの人々に福音を知らせる足として、

私たちが用いられるようにと願っています。

日本中が世界中が福音によって満ち溢れますように。

 

 

語るべき福音の具体的な内容

人は救いが必要な存在である

まずはじめに伝えるべき重要なことは、

人とは救いが必要な存在であるということです。

 

その意味はイエスキリストの福音は、

この世界に生きる全ての人に対するものであり、

ある特定の人のためのものではないということです。

 

私は現在キリストの福音によって、

それを信じ救いを得ることができました。

 

しかしそれは私だけに必要であったものではなく、

実はこの世界に生きる全ての人に必要なものであり、

ただ単に私たちはこの事実に気づいていないだけなのです。

 

私自身も救いを必要としている者であったとは、

福音を聞くまでは知る由もありませんでした。

 

しかし今は救いが必要な者であったことを知り、

それは私だけではなく私の周りにおられる、

全ての人々に必要なものであるということが、

福音の内容を知ることによって理解できたのです。

 

聖書ではこう語られています。

 

第一テモテ2章4節

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

 

神が望んでおられることとは、

全ての人が救われることにあります。

 

逆を言えば、

全ての人が救いを必要としているということであり、

救いを必要としない人は一人としていないということです。

 

 

まず第一段階として、

私は救いを必要とする者である、

このことを認識してもらうことです。

 

次の項目では具体的に何から救われるべきかを書きます。

 

神の裁きからの救い

では具体的に人とは何から救われる必要があると、

聖書では教えていることでしょうか。

 

それは神の裁きからであります。

 

人は全て神の裁きからの救い、

というものを必要としているのです。

 

すなわち私たちはこのまま何もせずにいれば、

神の裁きというものを受けなければならないという、

そのような恐ろしい結果が待っているということです。

 

では具体的に神の裁きとは何でしょうか。

どういう裁きを受けなければならないのでしょうか。

 

地獄の裁きの中に置かれるということです。

 

天国と地獄という言葉を使うと、

映画の世界かおとぎ話の世界かと思われ、

そんなバカな話があるかと失笑されてしまうのですが、

聖書ではそれが現実にあることを教えているのです。

 

聖書から確認してみましょう。

まず裁きがあることについてです。

 

ローマ2章5節

ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

 

神による正しい裁きの日が定められていることを教えています。

 

また具体的な裁きの内容についてはこちらです。

少し長いですが重要ですので確認ください。

 

黙示録20章12〜15節

12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物が開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。

13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。

14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

 

ここで注目することは14節と15節にある、

火の池に投げ込まれたということです。

 

神の裁きとは火の池に投げ込まれることであり、

火の池が燃えている場所を地獄と呼ぶのです。

 

またもう一つ上の御言葉で注目する言葉は、

いのちの書に名がしるされていない者は、

この火の池の中に投げ込まれるということです。

 

では誰がいのちの書に名が記されていて、

また誰が記されていないのかということですが、

 

それはその人が救われているのか、

救われていないのかということです。

 

救いを得た人はいのちの書に名が記されており、

救いを得ていない人は記されていないということです。

 

救いを得ているのか得ていないのか、

これが重要なポイントであることを教えています。

 

私たちはこの地獄の裁きの中から、

救われる必要がある存在であるということであり、

このことを人々に語っていかなければなりません。

 

では次の項目では、

神の裁きを受けなければならない理由についてです。

 

罪人となってしまった人間

どうして私たちは神の裁き、

地獄の裁きを受けなければなりませんか、

ということについて考えたいと思います。

 

結論から言うならば、

私たちが罪人となってしまったからです。

 

聖書の御言葉にはこうあります。

 

 ローマ3章10節

それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。

 

実はこの短い聖書箇所の中に、

私たちが悟るべき重要な真理があって、

それは義人は一人としていないということです。

 

聖書が主張されている一つのことは、

この世界に生きる人の中で、

義人と呼べる人は一人もいないということです。

 

言い換えるならば、

全ての人が罪人であるということです。

 

この世界に生きる全ての人が、

罪人となってしまったという教えです。

 

どんな人であったとしても、

たとえ人々から称賛されるような、

立派に素晴らしく生きた人であっても、

神の目には全てが罪人であると教えているのです。

 

もちろん私も含めて世界に生きる全ての人が、

神の目から見るならば罪人であるということです。

 

ではここで起こる質問とは、

どうして私が罪人となってしまうのか、

罪人と言われるようなそんな悪いことはしていない、

聖書の教えは少しばかり大袈裟ではないかということです。

 

確かにそうです。

私の周りを見てもこの人は罪人だと断言できるような、

そこまで悪いと思える人は存在していないのです。

 

周りにいる人々は大抵は優しくて真面目で、

正しく生きているような見えるということです。

いわゆる良い人と言える人々の方が多いのです。

 

ところが聖書が語ることは、

全ての人が罪人であると教えているのです。

 

ではここで考えることは、

聖書は何のゆえに私たちを罪人だと語るのか、

私たちが罪人であることの定義についてです。

 

一般的に罪人という言葉でイメージするのは、

犯罪者とか刑務所にお世話になるような人、

というイメージを持つのではないかと思います。

 

英語で言い表すならば『Crime』です。

 

しかし神様が語る罪人という言葉を、

英語で言い表すならば『Sin』です。

 

私たちが罪人ということを考えるときには、

いつも『Crime』を考えるということです。

しかし聖書の罪とは『Sin』であるということです。

 

ではここで重要なことは、

聖書で語る罪『Sin』とはどういう意味かです。

 

辞書で調べてみると『Sin』とは、

宗教的な罪であると書かれてあります。

 

一方で辞書で『Crime』を見ると、

法律上の犯罪とか罪と書かれてあります。

 

すなわち聖書で語る罪人の定義とは何か、

それは宗教的な罪を犯した人のことであり、

もっと砕いて言えば神を神としないことです。

神を神とせず神に背を向けて生きることです。

 

よく私たちクリスチャンは、

『悔い改める』という言葉を使います。

 

『悔い改める』の意味は何かと言うと、

方向転換を表す意味の言葉であります。

 

すなわち今まで向いていた方向から、

『悔い改める』方向転換をすることです。

 

言い換えれば神に背を向けていた人生から、

神に向かって生きる人生へと方向転換をする、

すなわちこれを『悔い改め』と言うのです。

 

全ての人間が罪人であると教えることには、

実はこのような定義があったということです。

 

神を神とせず神に背を向けて生きること

 

神という存在を全く無視して、

自分たちの好きなように生きるのならば、

これこそ罪であり罪の本質と言えるものなのです。

 

もちろん目に見える悪い行いをも罪でありますが、

しかしそれは罪の本質に付随するものであり、

全ては『Sin』から始まっているということです。

 

罪人『Sinner』であるならば、

もしそこから『悔い改め』をしないならば、

その人の最後は神の裁きであると教えているのです。

 

もう一度上の三つをまとめると、

・人は救いが必要な存在である

・具体的には神の裁きからの救いである

・神の裁きを受ける理由は人が罪人となったから

ということになります。

 

罪人である私たちには、

神の裁きが定められています。

 

しかし同時に聖書では、

罪人となってしまい神の裁きを受けるべき私たちが、

その裁きから救われるための方法について教えているのです。

 

最後にこの部分について記します。

 

エスキリストによる救い

 まず一つ聖書の御言葉を確認します。

 

マルコ2章17節

エスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 

まずここで注目するイエスキリストの言葉は、

正しい人を招くためではなく、

罪人を招くために来たということです。

 

そうです。

エスキリストは罪人を招くために、

言い換えれば罪人を救うために、

この世界へ来られたということです。

 

エスキリストがこの世界に生きてくださり、

具体的に行われた一つの出来事を通して、

罪人が救われる道を開いてくださったのです。

 

その一つの出来事とは、

 

十字架で死なれたことであり、

その後の三日目のよみがえりです。

 

エスキリストが十字架で死なれ、

死なれた後三日目に復活されたことにより、

罪人が救われる道が開かれたということです。

 

 

このことについて本気で説明すれば、

一つのブログ記事が書けてしまうほどの

長い文章となってしまうので、

ここでは本気の説明を避けて、

簡単に説明しようと思います。

 

神の子として来られたイエスキリスト。

 

その意味は罪の全くない汚れの全くない、

完全に清いお方であるということです。

 

そのようなお方が、

全人類の持っている罪を一手に引き受けて、

十字架にかかって死んでくださったのです。

 

本来ならば罪人である私たちが、

受けなければならない刑罰でしたが、

神の子であるイエスキリスト様が、

私たちに変わって刑罰を受けられたのです。

 

 

すなわち罪人である私たちが受けるべき神の裁きを

エスキリストが身代わりとなって受けられたのです。

 

これがイエスキリストの十字架の死の本当の意味です。

 

また十字架で死なれたイエスキリストは、

死の後三日目によみがえられました。

 

その意味は何かと言うと、

これ以上罪人としてではない、

神に赦された新しい人として、

すなわち神に認められた義人として、

生まれ変わりましたという意味であります。

 

エスキリストの十字架の死と、

死の後三日目のよみがえりには、

このような意味があったのです。

 

罪人である私のための十字架であり復活でした。

 

終わりに イエスを信じる者は救われる

私たちは本来神の裁きを受けなければならない、

そのような罪人であったということです。

 

しかし同時に神の裁きから救われる道について、

聖書は教えてくださっているということです。

 

それがエスキリストを信じることです。

 

エスキリストが罪人である私たちの代わりに、

十字架で死なれることによって、

神の裁きの全てを受けてくださいました。

 

神の裁きを受けて死なれたイエスキリストは、

その後三日目に死人の中から復活されました。

 

すなわち古い罪人としての姿が死んで、

神に認められる罪赦された義人として、

新しく生きる者とされたということです。

 

もしこの時に私たちがこのお方、

エスキリストを信じるならば、

我が救い主として受け入れるならば、

 

その瞬間にその人の罪は赦されて、

永遠の救いの中へと導かれます。

 

エスキリストを信じる信仰が、

私たちを神の裁きから救うのです。

罪人という状態から義人へと移されるのです。

 

最後に一つの御言葉を確認しましょう。

 

ローマ10章9〜10節

9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 

まず大切なことは、

自分は神の裁きからの救いを必要とする、

罪人であるということを認めることです。

 

そして次には、

神の裁きからの救いの道を完成された、

エスキリストを救い主として信じることです。

 

その人はその瞬間から罪赦されて、

永遠の救いを受け取っていくことになります。

地獄の裁きから天国の報いへと移されるのです。

 

最後までこの長文にお付き合いでくださり感謝します。

この文章を読まれた全ての方々に救いがありますように。

またクリスチャンの方はますます伝道に励まれますように。

 

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