聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

キリスト教とは④ 人は全てが罪人となってしまったことを信じている

今日はキリスト教とはというテーマで、

第4回目の記事を書こうと思います。

 

※こちらは約5400文字の記事となっています。

 

キリスト教とはというテーマで、

過去に3回の記事を書いてきました。

こちらにそのリンクを貼っておきます。

 

キリスト教とは①

seisyonosusume.hatenablog.com

 

キリスト教とは②

seisyonosusume.hatenablog.com

 

キリスト教とは③ 

seisyonosusume.hatenablog.com

 

今回はキリスト教とは④ということになりますが、

テーマは人は全てが罪人となってしまったことについてです。

 

はじめに 序論

 

キリスト教を信じている私たちは、

この世界に生きる全ての人が罪人である、

それはもちろん私たちも含めてそうである、

ということを信じています。

 

そしてこの部分がわからなければ、

キリスト教の救いについてわかりません。

 

何故ならばキリストとは、

罪人を救うために来られたお方だからです。

 

キリストは罪人を救うために来られたお方だあります。

故に自分は罪人ではないと考えている人々にとっては、

全く関係のないお話になってしまうということです。

 

しかし聖書が教えている重要な真理の一つとして、

全ての人が罪を犯してしまったと教えているのです。

義人と呼べる人は一人としていないということです。

 

この聖書の主張はある意味において、

人類に対する大きな挑戦状かもしれません。

 

何故ならば自分が罪人であるという認識は、

あまり人々の中にはないからです。

 

自分は人に迷惑をかけるような、

そんな悪いことはしてこなかったと。

どちらかと言えば正しく生きてきたのではないかと。

今まで真面目に誠実に生きてきたつもりであると。

 

多くの人はそう考えていると思います。

 

そしてその様に考える人々にとっては、

全ての人が罪人であると教えている、

聖書の主張は受け入れられないものです。

 

私が何をそんなに悪いことをしてきたのか、

何をもって私を罪人と決めつける事ができるのか、

普通はそう考えてしまうのであります。

 

聖書では全ての人が罪人だと語る。

しかし人々はそうは考えていない。

この様な違いがあるということです。

 

そこで今日私たちは、

では聖書が語る罪人とは具体的に何を言うのか、

その定義について詳しく考えていこうと思います。

 

聖書が語る罪人についての正しい定義を知るならば、

聖書の語る主張は決して大袈裟なものではない、

そう理解する事ができるはずであります。

 

今日はこのことについて四つのポイントで考えます。

1、聖書に見る罪の始まりについて

2、聖書の罪の定義について

3、罪人となってしまった結果について

4、生まれながらの罪人

 

では中身に入ってまいりましょう。

 

 

聖書に見る罪の始まりについて

人間が犯してしまった初めての罪について、

聖書の創世記3章で詳しく記しています。

 

少し長いのですがここに引用しましょう。

創世記3章1〜6節

1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。

3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 

神によって初めて創造された人間であるアダムとエバが、

罪を犯してしまうという場面がここで記されています。

 

長い話を短くしてお話をすれば、

何が彼らの問題であったのかと言うと、

 

この木からは取って食べては駄目だと、

神によって強く命じられていたにも関わらずに、

彼らはそれをしてしまったということです。

 

神がアダムとエバを創造された時、

彼らをエデンと呼ばれる園に置かれました。

そして彼らはその園にある木の中から、

自由に取って食べても良いと言われていました。

 

ただ一つだけ、

取って食べてはならない木があり、

それ以外は自由に取って食べる事ができました。

 

しかし残念なことに彼らは、

ただ一つ駄目だと言われていたその木から、

取って食べてしまうということでありました。

 

それがすなわち彼らの罪となってしまったのです。

 

もちろん取って食べた行為が罪であることはもちろん、

それ以前に神の語られた一つの命令に背いたこと、

ここに彼らの罪の本質があると言えるのであります。

 

神よって創造された人間の罪の始まり、

それは神の語られる御言葉に背いてしまった

ということに人間の罪の始まりがあったのです。

 

聖書の罪の定義について

まず結論からお話しすると先ほども触れましたが、

神の語られる御言葉に背くことであり、

すなわちそれは神に背くことであるということです。

 

私たちは一般的に罪ということを考える時に、

犯罪ということについて考えると思うのです。

 

例えば人の物を盗んでしまったとか、

誰かに暴力を振るってしまったとか、

殺人事件を犯してしまったとか、

実際に表に現れる犯罪を思うのです。

 

しかし聖書が語る罪とは何かというと、

もちろんそれらのものを罪と言うのですが、

しかしそれらのものは罪の本質ではなく、

本質的な罪を犯してしまった結果として、

表に現れる罪を犯してしまうということです。

 

では表に現れる罪を犯してしまう原因となる、

罪の本質について聖書は何を語っているのか。

 

繰り返して言うように、

神の語られる御言葉に背くことであります。

その意味は神ご自身に背くことであります。

 

神によって創造された人間が、

創造者なる方に背を向けて生きること、

神なんかいないかのように生きてしまうこと、

これこそが罪の本質であるということです。

 

そして人が神に背を向けてしまう結果として、

具体的に表に現れる犯罪を犯すことになるのです。

 

英語で確認すればもっとわかりやすいのですが、

 

私たちが考えている犯罪について、

英語では『crime』と表現します。

 

しかし聖書で語る罪についてその単語を見るときに、

『crime』ではなく『sin』というように書かれてあります。

 

『crime』とは犯罪を意味する言葉であり、

『sin』とは宗教的な罪という意味の言葉です。

 

もっと噛み砕いて言うならば、

『sin』とは神を神とせずに生きることであり、

神に背を向け神なんていないかのように生きることです。

 

聖書はこの『sin』について語っているということです。

 

だからもし私たちが神を神とせずに生きるならば、

神に背を向け自分の好きなように生きているならば、

その人は罪人であると聖書は教えているのであります。

 

もちろん前回のブログ記事にも書いたように、

ここで言われる神とは聖書に登場する神であり、

すなわち天地万物を創造された創造者であり、

私たち人間をも創造された神のことをです。

 

アダムとエバは取って食べては駄目だと、

そのように神から言われていたにも関わらず、

彼らは取って食べてしまったということです。

 

取って食べた行為が罪であることはもちろん、

それ以前に神の語られた御言葉に背いたこと、

ここに罪の本質があるのだということです。

 

罪人となってしまった結果について

こちらも先に結論から言いましょう。

神の裁きを受けなければならなくなりました。

 

神の語られる御言葉に背き、

罪人となってしまった人間には、

その結果として神の裁きを受けるという、

そんな残念な結果となってしまったのです。

 

一つ聖書の御言葉を引用してみましょう。

 

ローマ6章23節

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 

ここで明確に言われていることがあって、

それは罪から来る報酬は死であるということです。

 

人が罪人となってしまった結果、

死という報酬を受けなければならないということです。

 

報酬とは何かをおこなったことに対する代価です。

労働をするならばそれに見合った報酬を受けます。

 

同じように罪人となった人間には、

死という報酬が準備されているということです。

 

ここで死ということについて考えますが、

ここで言われている死というのは、

単に私たちがこれから先に経験する、

肉体的な死だけを意味するものではありません。

 

もちろんそれも含まれていますが、

それ以上の意味が含まれている言葉です。

 

すなわちそれは永遠の滅びを意味する言葉です。

 

もっとわかりやすく具体的に言いましょう。

 

地獄の裁きということです。

 

聖書では天国と地獄の存在について、

真剣にそのことを語ってくださっています。

 

天国と地獄という話をするときに、

人々はそんなバカみたいな話と考えて、

嘲笑されてしまうことがあります。

 

しかし聖書はその存在について真剣に語っています。

超真面目に天国と地獄の存在を語っているのです。

 

罪から来る報酬は死であるということの、

究極的な意味は地獄の裁きであるということです。

 

もし私たちが罪の本当の定義について理解すれば、

地獄の裁きというものがあることについても、

大袈裟なことではないと理解できるのではないでしょうか。

 

何故ならば罪とは何か、

神から離れていくことだからです。

 

私たち人間を創造された神から離れて、

自分たちの心の赴くままに生きるようになったからです。

 

神の存在を否定して、

神なんかいないかのようにして生きるからです。

 

その結果神の裁きを受けなければならないという、

それが地獄の裁きであるということは、

決して大袈裟なことではないということです。

当然受けるべき報いであると言わざるを得ないのです。

 

何故ならば人間が自らその道を選択したからです。

 

このことについてはもっと書きたいことがありますが、

あまりにも長くなってしまうので今日はここまでにします。

 

生まれながらの罪人

最後に一つ重要なことをお話しいたします。

 

初めの人間であるアダムとエバが、

神に背き罪人となってしまったが故に、

その子孫として生きている私たちも、

罪人という立場を持って生きることになりました。

 

すなわち私たちは生まれながらにして、

罪人という立場を持っているということです。

ある日突然悪いことをして罪人になった、

ということではないということです。

 

聖書でこう教えています。

エペソ2章1〜3節

1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、

2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 

特に3節の最後の部分にこうあります。

 

生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 

御怒りとは神の持っている罪に対するものです。

神は罪に対して御怒りを持っておられるということです。

それが具体的に地獄の裁きという形で現れるということです。

 

重要なことは生まれながらにして御怒りを受けるという部分です。

 

私たちはある日突然悪いことをして、

その結果として御怒りを受けるのではなく、

生まれながらにして身怒りを受ける者であった、

生まれた時から神の裁きを受けるべき罪人として、

生まれてきていたということを教えているのであります。

 

それは子供を見ればわかります。

 

私にも一歳になる息子がいるのでありますが、

親が悪いことを教えることがなくても、

子は自然と親に叱られることをするのです。

 

気に入らないと言って、

物を投げたりすることがあるのです。

 

気に入らないことがあれば、

物を投げなさいとは親は教えません。

 

しかし子はそれをするということです。

 

罪という性質を持っている人間は、

自然と悪いことを覚えるということです。

 

人は生まれた時から罪人であり、

その意味は神の裁きを受けることが、

決定されている者であるということです。

 

おわりに

今日私たちは人とは生まれながらにして罪人であり、

神の裁きを受けなければならないことを確認しました。

 

私たちは本来そのような者だったのです。

なんとも人の人生とは虚しいものでした。

 

しかしそのような私たちのために、

エスキリストがこの世界に誕生されました。

 

すなわち罪人となってしまった私たちを、

神の裁きという状態から救いへと導くために、

神の一人子イエスキリストが誕生されたのです。

 

もしイエスキリストの誕生がなければ、

私たちは今も虚しい人生でしかなかったのです。

 

しかしイエスキリストが誕生し、

そのお方を信じる信仰によって、

虚しい人生からの救いがなされるのです。

 

そのことについては次回のブログで書きます。

 

今日もかなりの長文となってしまいましたが、

この一つのことだけはしっかり覚えてほしいのです。

 

この世界に生きる全ての人間が、

神の御怒りを受けるべき罪人である

 

ということです。

 

それと同時に救いはあるということです。

 

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