聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

ポッドキャスト 日々新しく#02 生きる言葉

日々新しくというポッドキャスト の配信を文字で起こして掲載いたします。

音声で聴く場合はこちらのリンクからどうぞ!

Love Joy Peace Church キリスト教会: 日々新しく#02 20年8月11日 on Apple Podcasts

 

 

早速今日のメッセージですが、まず今日の聖書の1節を紹介したいと思います。

箴言18章21節です。死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。

今日はこの1節から、生きる言葉というテーマでお話ししていきます。

 


今日の聖書からわかることは、私たちが語る言葉の重要性についてです。私たちが日々の生活の中で、どのような言葉を語っているのかによって、その人の人生が生きた人生となるのか、死んだような人生となるのかが決定されてしまうということです。それほどの影響力、力というものが、私たちの語る言葉にはあるということです。言葉は力なのです。

 

例えば2ヶ月ほど前になるのでしょうか。日本で活躍をしていた女子プロレスラーが自ら命を絶ってしまうという、大変残念な事件が起こりました。実は私個人的なことですが、子供の時からプロレスが大好きで、最近はプロレス自体はあまり見ることはなくなりましたが、今でも誰が活躍をしているのかぐらいはチェックをしたりしています。主に男性のプロレスを見ていて、私が子供の頃はタイガーマスクとか、長州力も全盛期でありました。一方で女子プロレスの方はほぼ知らなかったのですが、しかし木村花さんの存在はニュースとかで知っていました。それこそこれからスター街道を突き進むことのできる、有望な選手の一人でありました。

 

ところがそのような将来有望と言われている若者が、自ら命を絶ってしまったということです。その原因はSNSを通しての言葉による暴力、いわゆる誹謗中傷と言われているものです。彼女に対する辛辣な誹謗中傷が、彼女を死にまで追いやってしまったのです。どう考えても、死ぬほどのことではなかった、生きていてほしかった、そう思ってしまうのです。しかし彼女にとっては死を選択しなければならないほど苦しかったということです。そうです。言葉の力というものは、私たちが想像している以上に大きなものなのです。


また私のことに関してお話しさせていただければ、私は現在教会の牧師という立場を持って生きているのですが、私がこのように牧師となることができたのは、その理由の大きな部分を占めているものが、周りにいる人々の言葉によることでありました。当時通っていた神学校の先生とか、同期の学生とか、クリスチャンの仲間の人たちとか、そのような人たちからよくこう言われていました。あなたはこれから神様のために良い働き人になりますよと。そういう私に対する励ましの言葉を、私はたくさん聞くことになり、それによって私は完全に勘違いをしてしまい、本当に牧師にまでなってしまったということです。


彼らが良い働き人になるよと言ってくださっていた通りに、私が良い働き人であるのかは。。。?ですけど、、もちろん最終的には私が祈って、神様の導きを求めて牧師になるという決断をしたことであります。しかしあの頃人々が語ってくださっていた言葉によって、今の私があると言っても言い過ぎではなく、周りに良い影響を与える言葉を語ってくれる人たちがいるということは、本当に重要なことだなと思わされているのです。


聖書を見れば、神様が天地万物を創造される時に、言葉を発せられ、それによって創造されたということがわかります。神様が光よあれ。という言葉を発すると、そこに光が現れたということです。神様の言葉には世界を創造する力があったということが分かるのです。それと同じように、私たち人間にも言葉の力というものが与えられているのです。人は神によって神の形に創造されたとありますが、神の形として創造された私たちには、神様が言葉の力を持っておられたように、私たちにもそのような力が与えられているということです。私たちが語る言葉によって、それを聞く人々に恵みを与えることができるし、もしくはそれを聞く人々に苦しみをも与えることができるのです。


どうでしょうか。私たちは日々どのような言葉を語っているでしょうか。家族に対して、職場において、友達との関係において、また自分自身に対しても、私たちはどのような言葉を語りかけることができているのでしょうか。私たちはいつも良い言葉、有益となる言葉、恵みを与える言葉を語ることができれば、そう願っているのです。


私には1歳半になる息子がいます。最近は自我も芽生えてきて、親が怒りたくなるような場面を彼が作ることが結構出てきました。もちろん彼が間違ったことをしたら、親として戒めを与えることは当然であります。しかしその時にいつも私が親として彼にどのような言葉を持って戒めるかということが問われています。


頭ごなしに怒ることは簡単です。何をやっているんだ。そんなことをしたらダメだ。これ以上泣いてもダメだ。私の感情では、そのように頭ごなしに怒って、その時を過ごしたいという欲求が湧き出てくるのです。しかし頭ごなしに怒っても、その結果は更に彼が泣き叫ぶということにしかなりません。頭ごなしに怒っても何の解決にもならないのです。


だから私はなるべくこのようにしています。彼を抱き上げ、涙を拭いてあげて、何故このようなことをしたらダメかを語って、その後神様に祈りを捧げるということです。すると少し経つと彼も心が落ち着き、何事もなかったかのように遊び始めるということです。聖書の中にはこのような言葉もあります。

コロサイ人への手紙4章6節です。あなた方の言葉が、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人一人に対する答え方がわかります。

 

ここで重要なポイントは塩味を利かせなさいということです。すなわち私たちの感情のまま言葉を発するのではなく、一度感情を抑えて、この時にどういう言葉を語るべきであるのかを考えて祈って、その上で与えられる言葉を語るということです。そのような言葉は、塩味の効いた言葉となり、人々に良い影響を与える、有益な言葉となるのです。


今日も新しい1日が始まりました。今日私たちがおかれるそれぞれの場所でどのような言葉を発していくことができるでしょうか。そしてそれは自分に対してもです。生かす言葉を語る者として、今日も生きることができればと願います。