聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

自由を履き違えないこと 幸せなクリスチャンライフ

今日の聖書黙想 20年5月3日

聖書箇所 申命記12章20〜32節

 

序論 今日の黙想の導入

神様が私たち人間を創造された時、

ロボットとして造られたのではありません。

単に神様の命令通りに動く意思のない存在ではなく、

自分の意思で物事を決めて動くことができるように、

自由意思というものを与えてくださっています。

 

私たちは右に行くか左に行くか、

見るか見ないか聞くか聞かないか、

私たちの意思で自由に決定できるのです。

 

実際この自由というものは、

とても尊いものであると思います。

 

自由が与えられているその中で、

私たちは神様を信じ神様を愛するという、

そう選択できたことに意味があるのです。

 

単にロボットのように機械的に、

神様を信じ愛することではなくて、

それにはあまり意味がありません。

 

私たちには神様を信じないこともできるし、

愛さないという選択もできる自由があります。

 

その与えられている自由を、

神様を信じ愛することに用いるという、

ここに大きな意味があり喜びがあるのです。

 

私には1歳になる息子がいます。

彼は親のロボットではありません。

1歳であっても立派に意思を持っています。

 

ご飯を食べたいのか食べたくないのか、

テレビを見たいのか見たくないのか、

親に抱っこされたいのかされたくないのか、

最近はしっかりと意思表示をします。

 

親の立場としてはご飯を食べる時間だから、

しっかりと食べて欲しいと願うのです。

 

しかし時には食べたくないと言って、

ぐずってしまうこともあるのです。

 

でもその中にあって彼が自らの選択で、

出された食事を喜んで食べる姿を見る時に、

それは親にとってこの上ない幸せであります。

 

食べてくれたと感動して嬉しくなるのです。

 

神様と私たち人間の関係も同じだろうと思います。

私たちが自らの意思で神様を賛美する時に、

それは神様にとってこの上ない喜びなのだろうと。

 

しかし同時に私たちは与えられている自由を、

悪いことにも用いることができるということです。

 

神様の忌み嫌うことにも用いることができるのです。

 

私たちには自由が与えられています。

なんでもできる自由が与えられています。

 

しかしその自由を履き違えてはなりません。

自由を間違ったことに用いてはなりません。

与えられている自由を正しく用いる時に、

そこには私たちの幸せな人生があるのです。

 

今日はこのことについて聖書から考えます。

 

イスラエルに与えられていた自由

今日の御言葉では、

肉を食べる自由について記録されています。

もしイスラエルの民たちが、

肉が食べたいということであるならば、

食べたいだけ食べても良いということです。

今日の御言葉から確認してみましょう。

 

申命記12章20〜21節

20 あなたの神、主が、あなたに告げたように、あなたの領土を広くされるなら、あなたが肉を食べたくなったとき、「肉を食べたい」と言ってよい。あなたは食べたいだけ、肉を食べることができる。

21 もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、私があなたに命じたように、あなたは主が与えられた牛と羊をほふりあなたの町囲みのうちで、食べたいだけ食べてよい。

 

彼らが肉を欲するならば、

食べたいだけ食べることができるのです。

肉を食べる自由が与えられているのです。

 

しかしその中にあっても、

一つの戒めが語られています。

 

申命記12章23〜25節

23 ただ、血は絶対に食べてはならない。

24 血を食べてはならない。それを水のように地面に注ぎ出さなければならない。

25 血を食べてはならない。あなたも、後の子孫もしあわせになるためである。あなたは主が正しいと見られることを行わなければならない。

 

 

肉を食べる自由が与えられています。

しかし血は食べてはならないということです。

肉を食べても血は食べてはならないということです。

血は地面に注ぎ出しなさいということです。

 

25節の最後の部分にとても重要な教えがあります。

あなたは主が正しいと見られることを行わなければならない。

 

イスラエルには自由が与えられています。

だからと言って主の嫌われることの為に、

その自由を用いてはならないのです。

 

与えられている自由があるのですが、

それを主の願われる範囲の中で用いることです。

そこにあなた方の幸せがあると教えているのです。

 

もう一度25節の御言葉だけを見ます。

血を食べてはならない。あなたも、後の子孫もしあわせになるためである。あなたは主が正しいと見られることを行わなければならない。

 

自由だからといって何でもして良いのではなく、

主の定められた範囲の中でその自由を用いること、

そこにイスラエルの幸せがあると教えているのです。

 

今日のメッセージ 自由を履き違えないこと

主は肉を食べても良いと言われた。

しかし血は食べるなと言われた。

 

これを聞いてある人はこう考えるかもしれません。

それは自由ではないではないかということです。

 

自由であるということならば、

血を食べてはならないという部分を、

外して欲しいということです。

 

血を食べてはならないと言う事によって、

そこにはもう自由は無いということです。

 

しかしそうではありません。

血を食べてはならないという定めがあっても、

血を食べるという自由は彼らに残っています。

 

血を食べてはならないという定めがあるから、

自動的に血を食べないという自由が、

彼らからなくなるのではないということです。

 

いくらそういう規定があっても、

血を食べるという自由が彼らに残されています。

 

ではなぜこのことが言われているのか。

血を食べてはならないと言われている目的です。

 

それはイスラエルに幸せを与える為だと。

彼らが日々幸せな者として生きる為に、

血を食べてはならないという定めが、

彼らに与えられているということです。

 

彼らには血を食べる自由もいまだあるのです。

しかし自分には血を食べる自由があると言って、

血を食べてしまうということならば、

彼らに幸せな日々は約束されないということです。

 

私たちには自由が与えられているのです。

しかしその自由を履き違えてはなりません。

 

私の息子には食べる自由も食べない自由もあります。

しかし親は彼の今後の健康について考える時に、

今は食べなければならないと教えるということです。

 

それに対して食べるか食べないかは、

彼の自由意志で決められることです。

 

しかしもし彼が食べないと選択するならば、

彼の今後の健康について保証できないのです。

 

感謝なことに私の息子はよく食べます。笑

 

私たちには今日も自由が与えられています。

その自由を主の御心に沿って用いることです。

 

罪に対してその自由を用いないことです。

人を苦しめる為にその自由を用いないことです。

誰かを傷つける為にその自由を用いないことです。

自らの堕落の為にその自由を用いないことです。

 

神様に感動を与える為にその自由を用いることです。

誰かに喜びを与える為にその自由を用いることです。

自分の信仰の成長の為にその自由を用いることです。

 

自由が与えられていることは、

とても素晴らしく尊いことです。

 

自由を正しく管理できるように、

それに相応しい知恵と能力を求めるのです。

 

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