聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

ポッドキャスト 日々新しく#07 委ねる祝福

ポッドキャスト において日々新しくという聖書メッセージを配信しています。

平日毎朝更新で、10分ほどにまとめたメッセージです。

こちらには配信されている内容の原稿をそのまま掲載しています。

音声で聞きたい方はこちらからどうぞ!

 

Love Joy Peace Church キリスト教会: 日々新しく#07 20年8月18日 on Apple Podcasts

 

早速今日のメッセージですが、まず今日の聖書の1節を紹介したいと思います。

 

第一ペテロ5章7節 あなた方の思い煩いを、一切神にゆだねなさい。神があなた方のことを心配してくださるからです。

 

今日はこの1節から、委ねる祝福というテーマでお話ししていきます。

 

今日はまずある一つの文章を紹介します。ネットでたまたま見つけた文章ですが、大変考えさせられる文章でしたので、ここで紹介できればと思います。タイトルはボロボロの家族写真というタイトルの文章です。


俺が小さい頃に撮った家族写真が一枚ある。見た目普通の写真なんだけど、実はその時父が難病を宣告されていてそれほど持たないだろうと言われ、入院前にこの世最後の写真はせめて家族と・・・と撮った写真らしかった。

 

俺と妹はまだそれを理解できずに無邪気に笑って写っているんだが、母と祖父、祖母は心なしか固いというか思い詰めた表情で写っている。当の父はというと、どっしりと腹をくくったと言う感じで、とても穏やかな表情だった。

 

母がその写真を病床の父に持って行ったんだが、その写真を見せられた父は特に興味も示さない様子で「その辺に置いといてくれ、気が向いたら見るから」とぶっきらぼうだったらしい。母も、それが父にとって最後の写真と言う事で、見たがらないものをあまり無理強いするのもよくないと思って、そのままベッドのそばに適当にしまっておいた。


しばらくして父が逝き、病院から荷物を引き揚げる時に改めて見つけたその写真は、まるで大昔からあったようなボロボロさで、家族が写っている部分には父の指紋がびっしり付いていた。普段もとても物静かで、宣告された時も見た目普段と変わらずに平常だった父だが、人目のない時、病床でこの写真をどういう気持ちで見ていたんだろうか。

 

今、お盆になると、その写真を見ながら父の思い出話に華が咲く。祖父、祖母、母、妹、俺・・・。その写真の裏側には、もう文字もあまり書けない状態で一生懸命書いたのだろう、崩れた文字ながら、「本当にありがとう」とサインペンで書いてあった。


文章はここまでです。どうでしょうか。感動的なお話です。しかし感動的なお話だけではない、色々と深く考えさせる内容ではないでしょうか。皆様はこの内容を聞きながら何を思ったでしょうか。

 

私も色々と思わされることがありました。私にも同じく小さな息子がいて、もし同じ立場になってしまったら、自分はどう思うだろうかと考えさせられたのです。正直なことを言えば、1日でも長く生きて、息子との時間を過ごせたらと思うのです。しかし同時に、私だっていつ何が起こるかわかりません。人間誰しもが明日も生きると考えながら生きています。しかし明日何が起こるのか、いや10分後に何が起こるのかわからないのが、私たちの人生ではないかと思うのです。


だから私は与えられている今日という1日を、家族と共に、小さな息子と共に、精一杯生きていくことができれば、息子の成長のために、少しでも役に立てる者として生きていくことができればとそう思わせられるのです。


また同時に、もし本当に自分にすぐに何かが起こってしまったら、もし先ほどのまだ若いお父さんのようになってしまったら、自分はどう考えるだろうかとも思うのです。やはり無念だと思います。悔しい気持ちでいっぱいになると思います。人には見せなかったかもしれませんが、文章に出てきたお父さん、おそらく毎晩涙を流していたのであろうと想像するのです。私ももし同じ立場になったらそうなることでしょう。


でも一つ私に気づかされたことがあるのです。最大の願いは1日でも長く生きて、家族と一緒に幸いな時間を過ごすことです。しかしもしそれが願わなかったとしても、そう、私の家族には私よりももっと頼りになり、信頼できるお方、天の父なる神様がいるということです。神様が家族を守ってくれる。神様が小さな息子を支え成長をさせてくださる。


もちろんそうならないことを願うのでありますが、先ほども言ったように、私たちの人生は明日何が起こるかわからない人生。今日と同じように明日も生きることができる保証は全くない人生。最近は人生100年時代と言われていて、そう考えれば私はあと50年は生きることができます。しかしそうなる保証はどこにもないということです。


私の知り合いで50代のうちに仕事をリタイアし、毎日ゴルフをしながら、また美味しいものを食べながら、楽しく生きている方がいました。お金もある程度あって、これから先も経済的にも心配なく、楽に生きていくることができるという状況でした。その方が言っていたことは、人生は100年時代、自分は100歳まで生きるんだ。そうなると後25年はある。人生楽しむぞと常々そう言っていた方でした。ところが75歳を過ぎた今年の5月、ある病によって入院し、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。


私たちが忘れてはならないことは、いくら私たちが後5年生きたい、10年生きたい、そのように願ったとしても、私たちの計画通りにならないこともあるということです。だから私たちは今日も生かされているならば、また明日も朝目を覚ますことができるならば、与えられる1日に感謝する心を持って、愛する家族と共に、もしくは愛する友人や仲間たちとともに精一杯生きていくことができればという思いであります。


また同時に私に関して言えば、もし明日何かが起こったとしても、必要以上に心配することはない、必要以上に憂うことはない、必要以上に落胆することはないということです。なぜでしょうか。神様を信じているからです。イエスキリストを救い主として信じているからです。今日はじめに読んだ1節をもう一度読んでみましょう。

 

第一ペテロ5章7節 あなた方の思い煩いを、一切神にゆだねなさい。神があなた方のことを心配してくださるからです。


もし最悪と思えることが起こっても、私はそのことをも神に委ねることができるのです。思い煩うできことが起こっても、それを神にお任せしていくことができるのです。もし私に何かが起こっても、神が家族を守ってくれる。神がこの小さな息子の手を握り、彼の人生を導いてくださる。成長させてくださる。このような信仰が与えられていることに幸いを感じているのです。


どうでしょうか。私に一切を委ねなさいと語っていてくださるお方に、私たちの思い煩いの一切を委ねてみてはどうでしょうか。私たちにできることには限界があるのです。しかし私に委ねなさいと語られる神様には限界がありません。無限の力をもって、私たちの人生を導いてくれるのです。


最後に一言お祈りいたします。愛する天の父なる神様。もし今日何かに対して思い煩いをもって、心配事を持って、憂きめにあい辛い思いをしている人がいるならば、どうかそれら全てのことを神様にお委ねすることができる祝福を与えてください。イエスキリストの尊きお名前を通してお祈りいたします。アーメン 。