聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

ポッドキャスト 日々新しく#04 良くしてくださるお方

ポッドキャスト において聖書からのメッセージの配信を行なっています。

10分ほどにまとめたメッセージとなっています。

音声で聞かれる方はこちらからどうぞ!

Love Joy Peace Church キリスト教会: 日々新しく#04 20年8月13日 on Apple Podcasts

 

こちらでは配信内容の原稿をそのまま掲載しています。

 

早速今日のメッセージですが、まず今日の聖書の1節を紹介したいと思います。

マタイ6章30節です。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

今日はこの1節から、良くしてくださるお方というテーマでお話ししていきます。


まず今日お話をしたいことは、私たちと神様との関係性についてです。私たちと神様との関係性について聖書ではどのように教えているのかということです。それは親子のような関係性にあると教えています。神様が親で私たちが神様の子であるということです。


今日先ほど読んだ1節の中には、神様は私たちに対して良くしてくださるお方であるということが書かれてあります。そうです。神様というお方はいつも私たちに良くしてくださるお方なのです。良いことをしてくださるお方なのです。私たちにとって神様とは良いお方であるということです。

 

それはまるで親がその子に対して良くしてあげることと同じです。親はその子が自分の子であるということだけで、無条件で良くしてあげるのです。もちろんそれは贅沢をさせるという意味ではありません。しかし自分の子が生きていくのに不便がないように、着る服を与え、食事を与え、必要な助けを与えてあげるということです。


例えば私には1歳半を過ぎた息子がいるのですが、親がどれだけ疲れていても、休んでいたいと思っていても、自分を奮い立たせて息子を公園に連れて行こうとします。それは息子に対して無条件で良くしてあげたいからです。彼に良くしてあげたいという気持ちが、疲れているとか、休んでいたいという気持ちに勝るということです。子供に良くしてあげたいという気持ちが、どれだけ疲れていても、休みたいと思っていても、私の体を動かすのです。

 

本を読んで欲しいと本を私のところに持ってくると、心の中では一瞬面倒だなと思ってしまうのですが、でも彼が喜ぶならばという思いの中で、自分を奮い立たせて動物の鳴き声の真似をしながら本を読んであげるということです。


私たちの信じている神様とは、まさしくそのようなお方です。もちろん神様には、面倒だなとか、今日は疲れているからとか、もっと休んでいたいとか、そういうことはないでしょう。愛する子である私たち一人一人のために、神様は喜んで良くしてくださるお方であるということです。しかもそこに条件はありません。無条件です。


今日読んだ1節に戻って、神様はきょうあっても、あすは炉に投げ込まれてしまう野の草さえ、これほどに装ってくださるとあります。私は北海道生まれ北海道育ちです。24歳まで北海道の北見市という所で育ち、24歳で東京に出ました。24年間北海道という大自然に囲まれた美しい環境の中で住んでいたのですが、しかし当時は、そのことに対する美しさとか感動とか、自然を見て心癒されるとか、そのような感じたことは一度もありませんでした。というより興味がなかった、そのようなものに関心がありませんでした。どうすればもっと楽しく遊ぶことができるだろうかということしか考えていない残念な人間でした。


しかし31歳になってアメリカのニュージャージーに来て、私は現在ニュージャージーに住んでいるのですが、初めてニュージャージーに来た時に、何か北海道に似たような雰囲気を感じました。緑が多くて、芝生が綺麗で、道も広くて、動物たちがそこら辺にいたりして、ここは北海道みたいだなと思っていました。


そして感謝なことに今の私は、ニュージャージーにある大自然を見たり、綺麗に咲き誇っている花を見たりする時に、北海道に住んでいた時にはわからなかった感動とか、美しさとか、心が癒されるというか、そのようなことを感じることができるようになりました。おそらく歳を取ったからということもあると思いますが、根本的な原因としては、やはり神様と出会うことができたから、聖書の御言葉に触れることになったからということにあると言えます。


道を歩けばいつ踏みつけられて枯れてしまうかもわからないたんぽぽの花が咲いています。ある意味においては存在の小ささから取るに足りないと思える、そのようなたんぽぽの花でさえ、これからも永遠に生き続けるかのように、綺麗に着飾っていて、その美しさを解き放っている。そしてそのようにしてくださっているのが神様であると教えているのです。神様は、明日も存在をしているのかわからないようなものにさえ、最高に着飾ってくださっている、良くしてくださっているということです。


私はそのような神様の創造された自然を見ながら、もう一度信仰に立ち返ることができるのです。心配なことないわけではありません。不安になることないわけではありません。将来に対する心配を持とう思うならば、そのための材料はいくらでもあるのです。


しかしその中にあって、神様の創造された自然を見ながら、この自然を無条件で愛され、彼らを美して着飾ってくださっている神様が、私の人生にも良くしてくださる、美しく着飾ってくださる、助けてくださる、養ってくださるという信仰に立ち帰らせてくれます。そう。神様さえ信頼していれば良い。神様から離れず、しっかりこのお方をつかんでさえいれば良い。そうするならば今までも良くしてくださった神様が、これからも良くしてくださるという信仰です。


もし私の息子が今晩の食事はあるのかなとか、今晩もミルク飲むことができるのかなとか、今月の電気代払うことができるのかなとか、そんなことを心配するということならば、それは親にとって悲しいことだし、寂しいことです。もしそんな心配をするということならば、大丈夫、あなたは何も心配せず喜んで楽しく生きれば良いと私は親としてそのように言ってあげることでしょう。


神様は今日私たちにそのように語ってくださっています。心配しなくても良い、大丈夫。私があなたを着飾るから、私があなたをこれからも良くしてあげるから、あなたがすることは、今日も1日神様を喜んで、神様の中で生きることを楽しんで、賛美して生きれば良いということです。


私たちは今日どうでしょうか。心配しすぎていませんか。もし私たちが心配をしなければならないことがあるとするならば、今日も私たちを良くしてくださる神様を信頼することができているかどうかということです。


お祈りいたします。愛する天の父なる神様、あなたは私の今までの人生の中でも、常に良くしてくれました。そしてこれからも変わらず良くしてくれるお方であることを感謝します。これからもあなたを信頼します。喜びます。楽しみます。イエスキリストの尊きお名前を通してお祈りいたします。アーメン 。