聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

ポッドキャスト 日々新しく#05 あなたは高価で尊い

ポッドキャスト 『日々新しく』聖書からの10分メッセージを絶賛配信中です!!

こちらのブログでは配信内容の原稿をそのまま掲載いたします。

音声で聞かれたい方はこちらのリンクからお願いします。

Love Joy Peace Church キリスト教会: 日々新しく#07 20年8月18日 on Apple Podcasts

 

 

早速今日のメッセージですが、まず今日の聖書の1節を紹介したいと思います。

イザヤ43章4節

わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

今日はこの1節から、あなたは高価で尊いというテーマでお話ししていきます。


今日まずはじめに、ある方のお話をしようと思います。最近読んだ本の中で、一人の方の証に大きな感動を覚えました。明けない夜はないというタイトルの本であり、21人の方々の希望のドキュメントということで、一人一人のお話を紹介しているという内容の本であります。今日はその中の一人で末次尚子さんという方のお話です。


尚子さんには弟さんがいました。博文さんという名の弟さんです。弟が生まれてくるまでは、長女で初孫で、家族に大切にされ、これからもお姫様のように育てられるはずでした。しかし弟の博文さんの誕生とともに、その生活が一変してしまったということです。


博文さんがこの世に誕生してなんと半年後に難病にかかっていることが判明しました。血友病という病です。血が出ると止まらないという難病です。しかもその中でも重度の病であり、出血をしたら輸血をしないと全身の血が流れ出てしまうという大変な病気にかかっていることが分かったのです。その時から姉である尚子さんの生活は弟のサポーター役に一変してしまいました。


母トミエさんの苦労は如何程のものであったか、入退院を繰り返す息子に付き添い、産んだ自分を責めることもあり、ある時は息子を殺して自殺をしようとまで追い詰められることもあったということです。


しかしそのような弟が病院に行くたびに、主治医の先生がこう言ったということです。この子の笑顔は天使のようだなあ。母のトミエさんの切羽詰まった思いを救ったのは、間違いなく弟の笑顔だったということです。そんな中、全てが弟を中心にした生活となり、姉の尚子さんは満たされない子供時代を過ごし、弟への妬みとか、両親への不満とか、そして世間を見返したいという怒りが常にあったとのことです。


ところがそんな姉と弟に転機が訪れました。弟の博文さんはやがて淀川栄光教会の作業所で働き始めることになり、そこで彼はイエスキリストを信じるようになりました。そして熱心に姉を教会に誘うようになりました。


尚子さん自身は一応礼拝に出席はしていたのですが、人も自分も信じられない自分であり、ほとんど居眠りしながら隠れるように座っていたということです。しかし時々耳に入るメッセージの言葉に涙することもあったということです。


やがて時がたち、母のトミエさんが肺の病気で亡くなりました。葬儀は教会で営まれます。葬儀の中で牧師先生が説教の時間にこう語りかけたということです。神様は障害者の博文さんを目的を持って、神様の目からは最高の作品としてお造りくださった。そしてお母さんは、この女性ならこの子を任せても大丈夫だと、多くの女性の中から選ばれた、強くて素晴らしいお母さんです。


それを聞いて尚子さんは大変驚きました。母は苦しみ抜いた被害者ではなかったのか。その時に初めて心から母を誇りに思えたということです。自分の人生も弟によって犠牲になっていたと思い込んでいたけれども、違うのかもしれない。そう思えるようになっていくのです。その後時を移して、尚子さんは神様の愛に触れられ、子供のように泣きじゃくりながら、神様の胸の中に飛び込んでいくことになります。2002年元旦に洗礼を受けました。


その後弟の博文さんは2007年9月に42歳で天国に召されます。この年齢まで生きられたことは奇跡だと言われ、42年間診療を続けてくれた病院スタッフの皆さんが整列して、彼のことを見送ってくれたということです。

 

ポッカリと穴があいたような気持ちを整理するため、尚子さんは小冊子愛は止められないを制作しました。その中でこう綴っています。思えば弟がいたから家族はつながっていたのです。弟が笑うとみんなが幸せになった。弟は、家族の重荷のはずが、実は要だったのです。イエス様はわたしを愛してくださり、弟を通して家族を導いてくれていました。彼は最後まで力一杯生き、命をかけて家族を導いてくれました。死ぬために生まれてきたようなその姿が、イエス様の姿と重なりました。とお話はここまでになります。なんと感動的なお話でしょうか。

 

このお話を聞きながら、皆様の中に色々と考えさせられることがあるのかと思います。私が特に教えられた部分を言えば、弟さんは家族の重荷ではなかったということです。確かに弟さんの病気によって、普通の家族では払う必要のない犠牲というものを多く払わなければならなかったでしょう。苦しかったでしょう。切なかったでしょう。お母様の気持ちを思えば胸が締め付けられるような思いになります。


しかし姉の尚子さんが気づいたことは、弟は重荷なんかじゃなかった。逆です。弟は私たち家族に幸せをくれる存在であった。母は息子に対してどれだけ申し訳ない気持ちでいたか。もちろん母の責任ではありません。しかし親とはそういうことだと思います。子供の弱さを見ながら、自分の足りなさを思ったり、申し訳ないという気持ちでいっぱいになるのが親だと思うのです。


しかしそれにも関わらず息子さんは笑ってくれるのです。申し訳ない気持ちでいっぱいの家族に対して、そんなことないよと言わんばかりに、笑顔を振りまいてくれるのです。その笑顔はもちろんプライスレス。どれだけ慰められ、励まされ、希望となることができたでしょうか。間違いなく博文さんという存在は、高価で尊い宝物のような存在だったのです。今日はじめに読んだ聖書の1節をもう一度読みたいと思います。

イザヤ43章4節

わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

 

神様の目から見るとき、この世界に生きる全ての人々が高価で尊い宝物であると教えています。もしかしたらこの世の価値観で考える時に、弱くて、足りなくて、愚かで、取るに足りない存在であると考えることがあるかもしれません。周りと比べるときに、劣等感というものを感じてしまうことがあるでしょう。自分が自分を考えた時に、高価で尊い存在とは思えない。価値のある人間だとは思えない。生きている意味があるのだろうかと思えてしまうことがあるのです。


しかし聖書はそう教えていません。この世の価値観で見れば劣っているとしても、足りなかったとしても、弱かったとしても、神の目にはそうではないと。あなたが今日も生きてくれているただそれだけで、神の目に高価で尊い宝物であると語ってくださっているのです。弱くても良いのです。足りなくても良いのです。人様に迷惑をかけてしまうような人間でも良いのです。目に見える条件は一切関係なく、神の目にあなたは今日も高価で尊い宝物として生かされているということです。今日も生きてください。宝物として、高価で尊い価値のある存在として、胸を張って生きてくださることを願っています。


最後に一言お祈りします。愛する天の父なる神様、新しく与えられる1日の初めにあって、私たちに高価で尊い価値のある宝物だと語ってくださることを感謝します。今日も一日そのような者としてふさわしく生きられるようにしてください。イエスキリストの尊きお名前を通してお祈りいたします。アーメン 。

ポッドキャスト 日々新しく#04 良くしてくださるお方

ポッドキャスト において聖書からのメッセージの配信を行なっています。

10分ほどにまとめたメッセージとなっています。

音声で聞かれる方はこちらからどうぞ!

Love Joy Peace Church キリスト教会: 日々新しく#04 20年8月13日 on Apple Podcasts

 

こちらでは配信内容の原稿をそのまま掲載しています。

 

早速今日のメッセージですが、まず今日の聖書の1節を紹介したいと思います。

マタイ6章30節です。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。

今日はこの1節から、良くしてくださるお方というテーマでお話ししていきます。


まず今日お話をしたいことは、私たちと神様との関係性についてです。私たちと神様との関係性について聖書ではどのように教えているのかということです。それは親子のような関係性にあると教えています。神様が親で私たちが神様の子であるということです。


今日先ほど読んだ1節の中には、神様は私たちに対して良くしてくださるお方であるということが書かれてあります。そうです。神様というお方はいつも私たちに良くしてくださるお方なのです。良いことをしてくださるお方なのです。私たちにとって神様とは良いお方であるということです。

 

それはまるで親がその子に対して良くしてあげることと同じです。親はその子が自分の子であるということだけで、無条件で良くしてあげるのです。もちろんそれは贅沢をさせるという意味ではありません。しかし自分の子が生きていくのに不便がないように、着る服を与え、食事を与え、必要な助けを与えてあげるということです。


例えば私には1歳半を過ぎた息子がいるのですが、親がどれだけ疲れていても、休んでいたいと思っていても、自分を奮い立たせて息子を公園に連れて行こうとします。それは息子に対して無条件で良くしてあげたいからです。彼に良くしてあげたいという気持ちが、疲れているとか、休んでいたいという気持ちに勝るということです。子供に良くしてあげたいという気持ちが、どれだけ疲れていても、休みたいと思っていても、私の体を動かすのです。

 

本を読んで欲しいと本を私のところに持ってくると、心の中では一瞬面倒だなと思ってしまうのですが、でも彼が喜ぶならばという思いの中で、自分を奮い立たせて動物の鳴き声の真似をしながら本を読んであげるということです。


私たちの信じている神様とは、まさしくそのようなお方です。もちろん神様には、面倒だなとか、今日は疲れているからとか、もっと休んでいたいとか、そういうことはないでしょう。愛する子である私たち一人一人のために、神様は喜んで良くしてくださるお方であるということです。しかもそこに条件はありません。無条件です。


今日読んだ1節に戻って、神様はきょうあっても、あすは炉に投げ込まれてしまう野の草さえ、これほどに装ってくださるとあります。私は北海道生まれ北海道育ちです。24歳まで北海道の北見市という所で育ち、24歳で東京に出ました。24年間北海道という大自然に囲まれた美しい環境の中で住んでいたのですが、しかし当時は、そのことに対する美しさとか感動とか、自然を見て心癒されるとか、そのような感じたことは一度もありませんでした。というより興味がなかった、そのようなものに関心がありませんでした。どうすればもっと楽しく遊ぶことができるだろうかということしか考えていない残念な人間でした。


しかし31歳になってアメリカのニュージャージーに来て、私は現在ニュージャージーに住んでいるのですが、初めてニュージャージーに来た時に、何か北海道に似たような雰囲気を感じました。緑が多くて、芝生が綺麗で、道も広くて、動物たちがそこら辺にいたりして、ここは北海道みたいだなと思っていました。


そして感謝なことに今の私は、ニュージャージーにある大自然を見たり、綺麗に咲き誇っている花を見たりする時に、北海道に住んでいた時にはわからなかった感動とか、美しさとか、心が癒されるというか、そのようなことを感じることができるようになりました。おそらく歳を取ったからということもあると思いますが、根本的な原因としては、やはり神様と出会うことができたから、聖書の御言葉に触れることになったからということにあると言えます。


道を歩けばいつ踏みつけられて枯れてしまうかもわからないたんぽぽの花が咲いています。ある意味においては存在の小ささから取るに足りないと思える、そのようなたんぽぽの花でさえ、これからも永遠に生き続けるかのように、綺麗に着飾っていて、その美しさを解き放っている。そしてそのようにしてくださっているのが神様であると教えているのです。神様は、明日も存在をしているのかわからないようなものにさえ、最高に着飾ってくださっている、良くしてくださっているということです。


私はそのような神様の創造された自然を見ながら、もう一度信仰に立ち返ることができるのです。心配なことないわけではありません。不安になることないわけではありません。将来に対する心配を持とう思うならば、そのための材料はいくらでもあるのです。


しかしその中にあって、神様の創造された自然を見ながら、この自然を無条件で愛され、彼らを美して着飾ってくださっている神様が、私の人生にも良くしてくださる、美しく着飾ってくださる、助けてくださる、養ってくださるという信仰に立ち帰らせてくれます。そう。神様さえ信頼していれば良い。神様から離れず、しっかりこのお方をつかんでさえいれば良い。そうするならば今までも良くしてくださった神様が、これからも良くしてくださるという信仰です。


もし私の息子が今晩の食事はあるのかなとか、今晩もミルク飲むことができるのかなとか、今月の電気代払うことができるのかなとか、そんなことを心配するということならば、それは親にとって悲しいことだし、寂しいことです。もしそんな心配をするということならば、大丈夫、あなたは何も心配せず喜んで楽しく生きれば良いと私は親としてそのように言ってあげることでしょう。


神様は今日私たちにそのように語ってくださっています。心配しなくても良い、大丈夫。私があなたを着飾るから、私があなたをこれからも良くしてあげるから、あなたがすることは、今日も1日神様を喜んで、神様の中で生きることを楽しんで、賛美して生きれば良いということです。


私たちは今日どうでしょうか。心配しすぎていませんか。もし私たちが心配をしなければならないことがあるとするならば、今日も私たちを良くしてくださる神様を信頼することができているかどうかということです。


お祈りいたします。愛する天の父なる神様、あなたは私の今までの人生の中でも、常に良くしてくれました。そしてこれからも変わらず良くしてくれるお方であることを感謝します。これからもあなたを信頼します。喜びます。楽しみます。イエスキリストの尊きお名前を通してお祈りいたします。アーメン 。

ポッドキャスト 日々新しく#03 休んでも良い

ポッドキャスト において10分ほどの音声メッセージを毎日配信しています。

興味のある方はこちらのリンクからどうぞ。

Love Joy Peace Church キリスト教会: 日々新しく#03 20年8月12日 on Apple Podcasts

 

こちらでは音声メッセージの原稿をそのまま掲載させていただきます。

 

 

早速今日のメッセージですが、まず今日の聖書の1節を紹介したいと思います。

マタイ11章28節 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

今日はこの1節から、休んでも良いというテーマでお話ししていきます。


私の好きな賛美歌の1節をまずシェアしようと思います。人生の海の嵐にというタイトルですが、こういう歌詞です。人生の海の嵐に、もまれきしこの身も、不思議なる神の手により命拾いしぬ、いとしずけき港につき我は今やすろう、救い主イエスの手にある身はいともやすし。という歌詞です。1曲歌いたくなる気分でありますが、今日はやめておこうと思います。私の大好きな讃美歌の一つです。

 

この讃美歌の好きなことは、もちろんメロディーも素晴らしいのですが、やはり歌詞にあると言えます。まさしくその通りで、私たちの人生には海の嵐に似たような状況ということが起こるのではないでしょうか。もちろん海ということをイメージする時に、穏やかで、のどかで、静かで、優しくて、癒されるというイメージがあると思います。
しかしある人にとっては、そのイメージが激しい階段を登り下りしているかのような、まさしく嵐の中にある海というイメージを想像するのではないかと思うのです。先ほど紹介した讃美歌の作者は後者の方をイメージしていて、そしてそれを私たちの人生に照らし合わせているということです。

 

確かにそう思います。皆様も自分自身の人生を振り返ってみるときに、穏やかで、のどかで、静かで、優しくて、癒されるという場面だけを通ってきましたという人はいないのではないでしょうか。多くの場合において、嵐の中を通ってきたかのような激しい階段を登ったり降りたりという、そんな忙しい人生を歩んできたのではないでしょうか。

 

私には1歳半になる息子がいるのですが、彼はまだこの世界に誕生して1年半しか経っていません。しかし彼の1年半の人生を振り返る時に、まさしく山あり谷ありの人生だなと思わされます。ある時は笑ったり、ある時は激しく泣き叫んだりということです。ある時には公園の滑り台で遊びながら最高の笑顔を見せる時があります。ところがある時は椅子の上から落ちて頭を打って激しく泣き叫ぶことがあります。ある時は自分の好きなテレビを見ながら喜んでいます。ある時は風邪を引き熱を出し苦しみの中に置かれる時があります。わずか1年半の人生でありますが、実に移り変わりの激しい人生と言えるのです。まさに海の嵐のような人生であり、激しい階段を登ったり降りたり、降りたりというよりも落ちたりと言えるかもしれません。

 

つい最近日本においてとても有名な俳優さんが自ら命を絶ってしまうという痛ましい出来事が起こりました。その原因については本当のところは本人にしかわからないことでありますが、推測するに疲れ果てていたのかな、息詰まっていたのかな、まさしく人生の海の嵐の中でもまれにもまれて、あまりにも重い荷物を背負い過ぎて、プレッシャーに耐えることができずに、最悪と思える選択をしてしまったのかなということです。とても残念なことであると言えます。

 

ある方のYouTube動画を見ていたら、この悲しい出来事に対して意見を述べていたのですが、少しその意見についてシェアしたいと思います。その方が言うのに、その方は世界中を回って世界の状況を見てきた方でありますが、世界を見てきて明らかに違う部分があって、それは日本という国は失敗することをあまり許さない国なのかなということです。完璧主義ということです。失敗してはならない、間違ってはならないということです。


それを聞いて本当にそうだなと思います。私自身も子供の頃親から何度も繰り返して言われてきたことが、人様に迷惑をかけないようにということでした。もちろんこれは正しいことです。人様に迷惑をかけることなく生きれたら素晴らしいです。しかし時にはこうも思うのです。迷惑をかけてもいいではないか。いや迷惑をかけてしまうということも起こり得るのではないか。

 

この世界に生きる人間の中で、完全完璧な人がどこにいるのでしょうか。人様に一切迷惑をかけることなく生きることができる人がどこにいるでしょうか。もしかしたら中にはそういう人もいるかもしれません。しかし今日はっきりと申し上げれば、それは自分だけがそう思っているだけであって、自分の気づかないところで誰かを苦しめ、傷つけ、迷惑をかけているということは間違い無くあるということです。

 

何故そう言えるのでしょうか。人間の中で完全で完璧な存在は一人としていないからです。人間という存在は、完全ではないのです。完璧ではないのです。間違えることがあるのです。失敗することがあるです。人に迷惑をかけてしまうような事があるのです。しかし日本の雰囲気の中に、いや日本だけがそうではないでしょう。世界中どこでもそれが許されないという状況があると思います。失敗してはならない、間違ってはならない、休んではならない、弱音を吐いてはいけない、できないと素直に言ってはならない、人様に迷惑をかけてはならないからだということです。これがある意味この世の中に流れている価値観であるかと思います。そしてこのような価値観こそが、私たちの人生を海の嵐のようにしてしまっているのではないかと言えるのです。

 

では今日私たちが最後に考えることは、聖書の価値観ではどうであるのかということです。聖書はどう教えているだろうか。今日はじめに読んだ聖書の1節をもう一度読んでみます。

マタイ11章28節 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。これが聖書の価値観です。

 

聖書は休みなさいと教えます。疲れているならば、重荷を負っているならば、そのことを正直に告白するようにと教えています。それによって人様に迷惑をかけてしまうことがあるでしょう。しかしそれでも良いのです。私たちの信じる神様が、イエス様が、そのことも含めて全てにおいて必ず助けてくださる、守ってくださるということです。そうです。私たちにとっての最高の休み場とは、イエスキリストにあるのです。

 

今日疲れている方がいますか。重荷を負って苦労している方はいますか。いと静けき港である、イエスキリストの中に逃げ込みましょう。逃げ込んで良いのです。助けを求めて良いのです。休んでも良いのです。

ポッドキャスト 日々新しく#02 生きる言葉

日々新しくというポッドキャスト の配信を文字で起こして掲載いたします。

音声で聴く場合はこちらのリンクからどうぞ!

Love Joy Peace Church キリスト教会: 日々新しく#02 20年8月11日 on Apple Podcasts

 

 

早速今日のメッセージですが、まず今日の聖書の1節を紹介したいと思います。

箴言18章21節です。死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。

今日はこの1節から、生きる言葉というテーマでお話ししていきます。

 


今日の聖書からわかることは、私たちが語る言葉の重要性についてです。私たちが日々の生活の中で、どのような言葉を語っているのかによって、その人の人生が生きた人生となるのか、死んだような人生となるのかが決定されてしまうということです。それほどの影響力、力というものが、私たちの語る言葉にはあるということです。言葉は力なのです。

 

例えば2ヶ月ほど前になるのでしょうか。日本で活躍をしていた女子プロレスラーが自ら命を絶ってしまうという、大変残念な事件が起こりました。実は私個人的なことですが、子供の時からプロレスが大好きで、最近はプロレス自体はあまり見ることはなくなりましたが、今でも誰が活躍をしているのかぐらいはチェックをしたりしています。主に男性のプロレスを見ていて、私が子供の頃はタイガーマスクとか、長州力も全盛期でありました。一方で女子プロレスの方はほぼ知らなかったのですが、しかし木村花さんの存在はニュースとかで知っていました。それこそこれからスター街道を突き進むことのできる、有望な選手の一人でありました。

 

ところがそのような将来有望と言われている若者が、自ら命を絶ってしまったということです。その原因はSNSを通しての言葉による暴力、いわゆる誹謗中傷と言われているものです。彼女に対する辛辣な誹謗中傷が、彼女を死にまで追いやってしまったのです。どう考えても、死ぬほどのことではなかった、生きていてほしかった、そう思ってしまうのです。しかし彼女にとっては死を選択しなければならないほど苦しかったということです。そうです。言葉の力というものは、私たちが想像している以上に大きなものなのです。


また私のことに関してお話しさせていただければ、私は現在教会の牧師という立場を持って生きているのですが、私がこのように牧師となることができたのは、その理由の大きな部分を占めているものが、周りにいる人々の言葉によることでありました。当時通っていた神学校の先生とか、同期の学生とか、クリスチャンの仲間の人たちとか、そのような人たちからよくこう言われていました。あなたはこれから神様のために良い働き人になりますよと。そういう私に対する励ましの言葉を、私はたくさん聞くことになり、それによって私は完全に勘違いをしてしまい、本当に牧師にまでなってしまったということです。


彼らが良い働き人になるよと言ってくださっていた通りに、私が良い働き人であるのかは。。。?ですけど、、もちろん最終的には私が祈って、神様の導きを求めて牧師になるという決断をしたことであります。しかしあの頃人々が語ってくださっていた言葉によって、今の私があると言っても言い過ぎではなく、周りに良い影響を与える言葉を語ってくれる人たちがいるということは、本当に重要なことだなと思わされているのです。


聖書を見れば、神様が天地万物を創造される時に、言葉を発せられ、それによって創造されたということがわかります。神様が光よあれ。という言葉を発すると、そこに光が現れたということです。神様の言葉には世界を創造する力があったということが分かるのです。それと同じように、私たち人間にも言葉の力というものが与えられているのです。人は神によって神の形に創造されたとありますが、神の形として創造された私たちには、神様が言葉の力を持っておられたように、私たちにもそのような力が与えられているということです。私たちが語る言葉によって、それを聞く人々に恵みを与えることができるし、もしくはそれを聞く人々に苦しみをも与えることができるのです。


どうでしょうか。私たちは日々どのような言葉を語っているでしょうか。家族に対して、職場において、友達との関係において、また自分自身に対しても、私たちはどのような言葉を語りかけることができているのでしょうか。私たちはいつも良い言葉、有益となる言葉、恵みを与える言葉を語ることができれば、そう願っているのです。


私には1歳半になる息子がいます。最近は自我も芽生えてきて、親が怒りたくなるような場面を彼が作ることが結構出てきました。もちろん彼が間違ったことをしたら、親として戒めを与えることは当然であります。しかしその時にいつも私が親として彼にどのような言葉を持って戒めるかということが問われています。


頭ごなしに怒ることは簡単です。何をやっているんだ。そんなことをしたらダメだ。これ以上泣いてもダメだ。私の感情では、そのように頭ごなしに怒って、その時を過ごしたいという欲求が湧き出てくるのです。しかし頭ごなしに怒っても、その結果は更に彼が泣き叫ぶということにしかなりません。頭ごなしに怒っても何の解決にもならないのです。


だから私はなるべくこのようにしています。彼を抱き上げ、涙を拭いてあげて、何故このようなことをしたらダメかを語って、その後神様に祈りを捧げるということです。すると少し経つと彼も心が落ち着き、何事もなかったかのように遊び始めるということです。聖書の中にはこのような言葉もあります。

コロサイ人への手紙4章6節です。あなた方の言葉が、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人一人に対する答え方がわかります。

 

ここで重要なポイントは塩味を利かせなさいということです。すなわち私たちの感情のまま言葉を発するのではなく、一度感情を抑えて、この時にどういう言葉を語るべきであるのかを考えて祈って、その上で与えられる言葉を語るということです。そのような言葉は、塩味の効いた言葉となり、人々に良い影響を与える、有益な言葉となるのです。


今日も新しい1日が始まりました。今日私たちがおかれるそれぞれの場所でどのような言葉を発していくことができるでしょうか。そしてそれは自分に対してもです。生かす言葉を語る者として、今日も生きることができればと願います。

ポッドキャスト 日々新しく#01 恐れないでいなさい

日々新しくというポッドキャスト の配信を、

新しく始めることになりました。

次のリンクからどうぞ。

Love Joy Peace Church キリスト教会: 日々新しく #01 20年8月10日 on Apple Podcasts

 

こちらには配信されている内容を、

文字に起こして掲載していきます。

 

早速今日のメッセージですが、まず今日の聖書の1節を紹介したいと思います。

イザヤ書41章10節です。恐るな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。


今日は恐れないでいなさいというテーマでお話をしていきます。先ほど読んだ聖書の1節では、恐るな。という言葉から始まっています。恐る必要はありませんと語るのです。何故恐る必要はないのですか。わたしがあなたとともにいるからだということです。わたしとは神様のことを指しています。神様ご自身が今日もあなたと一緒にいてくださるから、だからあなたは恐る必要は全くないということです。


恐るという言葉には不安とか心配とか悩みとか、そういう意味も含まれています。不安になる必要はない。心配する必要はない。思い悩む必要はありませんということです。どうでしょうか。もしかしたらこの放送をお聞きの方々の中に、恐れの中で、不安の中で、心配しながら、思い煩いながら今日も朝を迎えているという方がいるかもしれません。


いや私たちがこの世界を生きているならば、少なからず心配事があり、不安があり、思い煩ってしまう、恐れてしまうということがあるでしょう。ある特定の人だけではなく、この世界に生きる全ての人が、様々な思いの中で、悩みながら不安を感じながら生きているのではないかと思うのです。


もちろんそれは私も含めてです。私自身は神様を信じる者であり、聖書を読み、聖書を学ぶ者であり、ゆえに先ほど読んだ聖書の1節は、何度も繰り返して読んで、暗記できてしまうほどであります。しかしだからと言って、私の人生から恐ることや不安なことが無くなってしまうのかと言うと、決してそんなことはないということです。


私たちはいくら神様を信じたとしても、聖書の言葉を100回読んでも、1000回読んでも、暗記するほどであったとしても、この世界を生きている限りにおいて、様々なことで悩まされ、時には心配で夜も眠ることができないということが起こるのです。


特に今はコロナ禍にあって、いつ収束するのかもわからないという、第二波第三波と続いいていくかもしれないという、そんな状況にあって、これから先の将来について考える時に、不安で心配でということがあるでしょう。


もし今日まさしく恐れや不安の中にいるということならば、そのような方々のために、聖書の1節は力強く語っていてくださいます。

恐るな。わたしがあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め。あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守ると。

なんという力強い約束の御言葉でしょうか。


私たちはそのように語っていてくださる神様の言葉に信頼をして良いのです。そのように語っていてくださる神様に委ねて良いのです。自分でどうすることもできない状況にあって、私たちは神様に全ての状況をお任せして良いのです。神様が語ってくださっているこの約束を信じて、こう告白することです。神様はどうかこの状況から私を守ってください。この状況から私を助けてください。私を守ると語られる神様を信じます。このように告白することです。するとその瞬間に私たちの心には平安が訪れるはずです。


例えばこういうことがありました。私は結婚していて既に20年が経っています。現在私たちの夫婦には1歳を過ぎた息子がいるのですが、なんと神様は結婚してから20年間子供を与えてくださいませんでした。これ以上子供が与えられることは無理かなと考えていた時、2018年6月に子供の妊娠が判明したのです。待望の子供です。20年間待ちに待ってようやく子供が与えられました。


ところが妊娠が分かってからおそらく2ヶ月後ぐらいだったと思いますが、妻に出血が起こり止まらないという状況が起こりました。私たちはすぐに車に乗って病院へ向かいました。20年待ってようやく与えられた子供、このまま顔を見ることもできなく天国に行ってしまうのだろうかという、そういう思いが頭の中をよぎります。妻もただただ涙を流しているという状況でした。どうしてですか神様、という思いが私の心と思いの中に浮かんできます。しかしその時にこの御言葉が思い起こされたのです。恐るな。という御言葉です。わたしがあなたを守るという御言葉です。


その瞬間に私は考えました。そうだ。この子は神様の子供だ。だから神様がこの子のことを守ってくださる。助けてくださる。そう考えることができました。そしてこう祈りました。神様は、全てのことをあなたの委ねます。あなたにお任せいたします。すると、私の心には大丈夫だという安心感が与えられてきました。


病院について診察を受けました。全く問題ありませんでした。神様が守っていてくださいました。神様がいつもこの子のことを神様ご自身の義の右の手で助けてくださっていました。2019年1月無事に子供を出産し、現在1歳半が過ぎたところです。とても元気に育っていてくれています。神様の守り、神様の助けというものが、いつもこの子にあるのだなと、息子を見ながら私はいつもそのことを思わされているのです。


神様を信じ、イエス様を信じたとしても、この世界を生きている限りにおいては、恐ることや不安になることは起こるのです。それは信じていても、信じていなくても関係なく起こることです。


しかしその中にあって、神様を信じる私たちには、これら全てを神様に委ねることができる、神様にお任せすることができる、神様に祈ることができるという、特別な祝福が与えられていることを感謝するのです。


今日も神様は私たちに恐るなと語ってくださっています。何故恐る必要はありませんか。神様が今日も私たちとともにいてくださり、そして助けてくださり、守ってくださるからです。だから私たちは今日も恐れないで、心には安心感を持って生きることができるのです。皆様の今日1日が、神様とともに平安な1日となることをお祈りいたします。

神の義を慕い求める喜び

今日の黙想 20年8月10日

聖書箇所 ローマ8章12〜17節

 

まず今日の御言葉にはこう書かれてあります。

 

 

ローマ8章12節

ですから、兄弟たちよ、私たちには義務があります。

肉に従って生きなければならないという、

肉に対する義務ではありません。

 

 

私たちには義務があるということです。

私たちとは誰のことを教えているかというと、

キリストを信じて罪と死の原理から解放された人です。

すなわち神の義が与えられ救いを受けた人のことです。

 

そのような私たちには義務があると教えます。

 

どのような義務があるということでしょうか。

まず一つ言えることは肉に対する義務ではありません。

 

すなわちこのことの意味は、

肉の力によって律法を全うせよ、

あなたの努力とか頑張りによって、

神の御言葉に従えではないということです。

 

それは私たちの力では不可能なことです。

 

律法の要求を全うするということは、

具体的に同意ことを教えているのか。

 

それは全ての律法に従うということです。

一つぐらいは従うことができなくても良いか、

ということではないのです。

 

律法の要求を全うして神の義を得るためには、

全ての律法の内容を全うしなければなりません。

 

しかし残念なことに、

私たちにそれをすることは不可能です。

人間の力でそれをはたしえることはできません。

 

だから私たちにとって一つ重要なこととして覚えるべきは、

肉の力によって律法の要求を全うさせようとする必要なない、

そのような義務は私たちに課せられていないということです。

 

そのような義務が課せられたとしても、

それは私たちにとって不可能なことなのです。

 

だからこそ私たちには助けが必要なのです。

そしてその助けが具体的な形として現れたのが、

エスキリストの十字架の贖いであります。

 

エスキリストが私たちの身代わりとなって、

律法の要求を完全に全うしてくださったのです。

 

律法の要求を守り行うことのできない私たちの代わりに、

罪から来る報酬である死という報酬を完全に受けられたのです。

それによって律法の要求を完全に全うしてくださり、

それを信じる私たちも律法の要求が全うされた者として、

神によって認められるということが起こったのです。

 

私たちは肉の行いによって、

律法の要求を全うできるのではありません。

 

ただイエスキリストを信じる信仰によって飲み、

律法の要求を全うしていくことができるのです。

 

 

ローマ8章13節

もし肉に従って生きるなら、

あなたがたは死ぬことになります。

しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、

あなたがたは生きます。

 

 

ここで明確に教えています。

肉に従って生きるということならば、

その結果は死でしかないということです。

 

そうです。肉の行いによって、

すなわち私たちの努力とか頑張りによって、

律法の行いを要求させるということならば、

その結果は死でしかないということです。

 

何故ならば私たちの力によってでは、

律法の要求を全うすることはできないからです。

 

律法の要求を全うできないということは、

罪人として神の裁きを受けなければならないのです。

罪から来る報酬は死であるという御言葉に従ってです。

 

しかしももし御霊によって体の行いを殺すなら、

あなたがたは生きますと教えています。

 

キリストの福音を信じることによって、

その人の中には御霊が住むことになります。

御霊が私たちの中で生きることになるのです。

 

御霊によって生きるということになれば、

私たちは自然と体の行いを殺すことになります。

体の行いとは神に喜ばれない行いです。

一言で罪人としての生き方であります。

 

肉の力では罪人としての生き方に勝てません。

しかしキリストの福音を信じることによって、

その人の中に御霊が生きるようになる時に、

その人は自然と罪人としての生き方に勝利し、

義に道を生きる者として変えられることになります。

 

 

第2コリント5章17節

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。

古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 

 

キリストのうちに生きる時に、

すなわちキリストの福音を信じ受け入れる時に、

その人は完全に新しい人として生まれ変わるのです。

 

ここで重要なポイントは、

少しばかり成長できましたではありません。

良い人間に少しはなれたかなと思います、

というそんなレベルではないということです。

 

新しく造られた者です。

新しく生まれ変わった者です。

 

成長しましたではなく、

新しく生まれ変わったのです。

完全に新しい人に変えられたのです。

 

古いものは過ぎ去った人として、

すなわち罪人としての姿が過ぎ去り、

神の義に生きる新しい人として、

完全に生まれ変わりましたということです。

 

キリストの福音を信じることによって、

すなわち私の罪のために十字架で死なれ、

三日目に復活されたキリストの福音によってのみ、

私たちは律法の要求が全うされた者として認められ、

神の義を得た者として神から認められることになります。

 

エスキリストの福音を信じる信仰だけが、

私たちに神の義を得させる力となるのです。

 

そしてこの福音を信じて御霊を受けた私たちは、

これからも神の義の中で生きることを喜びとし、

そこに生きることを慕い求めることになります。

 

もちろん信じて救われたとしても、

完全に義人としての歩みができるかと言えば、

決してそんなことはありません。

 

今だに神の心を悲しませるような、

そんな罪を犯してしまう者であります。

 

しかしキリストの福音を信じて、

御霊を受ける以前とは決定的に違うことがあります。

 

それは罪の中に留まり続けることはできない、

罪の中にいることが苦しみとなるということです。

 

信じる以前においては、

このような葛藤はありませんでした。

 

しかし御霊を受けた私たちには、

決定的なこのような変化が起こるのです。

 

罪の中に留まることが苦痛となります。

神の義の中で生きることが喜びとなります。

 

古い罪人としての姿は、

キリストの福音を信じる信仰によって、

完全に過ぎ去ってしまったからです。

 

今日も1日キリストの福音を持つ者として、

神に義を慕い求める喜びを感じながら生きること、

このことを願っているのであります。

 

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いのちと平安をもたらすキリストの福音

今日の聖書黙想 20年8月8日

聖書箇所 ローマ8章1〜11節

 

まず1節の御言葉ではこう宣言されています。

 

 

ローマ8章1節

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が

罪に定められることは決してありません。

 

 

キリスト・イエスにある者、

すなわちキリストの福音を信じ受け入れた者は、

罪人として定められることはないということです。

 

キリストの福音を信じ受け入れるならば、

その人は罪人という状態から救われて、

永遠の命を得る祝福に至ることができます。

 

キリストの福音を信じる道のみが、

私たちを罪人という状態から救うことができます。

 

何故でしょうか。

2節以降にそのことが記されています。

 

 

ローマ8章2節

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、

罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

 

 

本来私たちは罪と死の原理によって捕らえられていました。

しかしそれはキリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、

解放を与えてくださったということです。

 

私たちが今日知るべきことは、

私たちの真のいのちはイエス様にあるということです。

 

エス様こそ私たちを真に生かすことのできるいのちです。

 

だからもし私たちがキリストの福音を信じるのならば、

その人の中にキリストにある真のいのちが入ることになり、

本来罪と死の奴隷となっていたという状態から、

完全なる解放を得ることができるということです。

 

ではなぜ私たちは罪と死の奴隷となっていたのでしょうか。

 

 

ローマ8章3節

肉によって無力になったため、

律法にはできなくなっていることを、

神はしてくださいました。

神はご自分の御子を、罪のために、

罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、

肉において罪を処罰されたのです。

 

 

ここを通して分かることは、

律法という神からの御言葉がありますが、

それを私たちが肉の力において成し遂げることはできない、

私たちの努力とか頑張りにおいて律法を守り行うことはできない、

ということを教えている内容であります。

 

そうです。

私たちは自分たちの力のみで、

神の律法の通りに生きることは不可能です。

 

確かにこの世界には良い人はいます。

人々から認められる素晴らしい人は存在します。

 

しかし神の義という観点から考える時に、

そこに到達しきれる人はいません。

 

この世にあってはどれだけ良い人であり、

称賛を受けるような人であったとしても、

神の御前でその行いを誇られる人は一人としていない、

神の目から見て全てが罪人であるということです。

 

ゆえに私たちは自分たちの努力によって、

神の律法を成し遂げることはできません。

神の義を得るためには私たちの努力によりません。

 

しかし神はそのような私たちの弱さを知っていて、

ご自分の御子であるイエスキリストを世に送り、

律法の要求をまっとうできない私たちの身代わりとさせて、

肉において彼を処罰したということです。

 

律法の要求をまっとうできないのは私たちです。

ゆえに裁かれるべきは私たちの方であります。

 

しかし私たちがその裁きを受ける代わりとして、

エスキリストがその裁きを受けてくださったのです。

 

それがイエスキリストの十字架の意味であります。

 

エスキリストが十字架の上で死なれた理由、

それは私たちが本来罪人であるがゆえに、

受けなければならなかった刑罰であります。

 

それを私たちが受ける代わりとして、

エス様が受けてくださったということです。

 

それによってこれ以上私たちは、

罪の故の刑罰を受ける必要がなくなったのです。

 

エス様が私が受ける刑罰を身代わりに受けてくださった、

罪人である私たちのために十字架で死んでくださった、

そのことを信じることです。

 

そのことを信じるならば、

信じる信仰によって私たちは救われるのです。

罪と死の原理から解放された者として、

いのちの御霊を持つ者として救われるのです。

 

 

ローマ8章4節

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、

律法の要求が全うされるためです。

 

 

ここでは何を教えているのでしょうか。

 

肉に従って歩まず、

すなわち自分の努力とか頑張りによってではなく、

御霊に従って歩むということを通して、

すなわちキリストの福音を信じることを通して、

律法の要求が全うされたとして認められるということです。

 

律法の要求が全うされていくとは、

神の律法の通りに生きた者として、

神によって認められるということです。

 

肉の行いによって今だに罪人であります。

律法の要求を守り行えない者であります。

 

しかしそうであったとしても、

キリストの福音を信じることによって、

キリストの十字架の贖いを受け取ることによって、

その人は律法の要求を全うした人として、

神から認められることを教えているのです。

 

なんと感謝なことでしょうか。

 

私たちが罪と死の原理から解放されるためには、

私たちの側でできる努力は何一つもないのです。

ただ私たちの身代わりとなって刑罰を受けられたお方、

エスキリストの福音を信じさえするならば、

その人は救われて真のいのちを得ると教えています。

 

 

ローマ8章5節

肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、

御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。

 

 

私たちが神の律法に従って生きるようになるためには、

私たちが御霊に従って生きる者となることにあります。

 

何度も繰り返すようですが、

私たちの肉の行いによってそれができるのではありません。

それは全くもって不可能なことであります。

 

まるで自転車を漕いで太平洋を横断するというような、

あり得ない挑戦と同じことであります。

 

私たちの努力によって頑張りによって、

神の義に到達することはできません。

神の律法の要求を全うするためには、

ただ御霊に従って生きることであります。

 

すなわちキリストの福音の中で生きることです。

 

その人は律法の要求を全うする生き方として、

自然と変えられていくようになるということです。

 

 

ローマ8章6節

肉の思いは死であり、

御霊による思いは、

いのちと平安です。

 

 

肉によって頑張って生きようとしても、

決して真のいのちに達することはできません。

すなわち律法の要求を全うすことはできません。

 

ただ御霊による思いの中で生きることのみ、

すなわちキリストの福音を信じる信仰のみが、

私たちにいのちと平安をもたらしてくれるのです。

 

最後にもう一つだけ御言葉を読みます。

 

 

ローマ8章11節

もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、

あなたがたのうちに住んでおられるなら、

キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、

あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、

あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

 

 

キリストの福音を信じさえするならば、

ただそれだけで私たちは永遠のいのちに至ります。

 

キリストの福音を信じることによって、

私たちに起こる変化は何かというと、

御霊が私の中に住んでくださることです。

 

キリストを十字架の死からよみがえらせた神の御霊が、

福音を信じる私たちの中に住んでいてくださるのです。

 

そしてキリストが死の中からよみがえられたように、

私たちも死んで終わりではないという祝福、

永遠のいのちという祝福に預かることになります。

 

キリストの福音を信じることのみが、

私たちに永遠のいのちを可能とするのです。

 

今日私たちの中にいのちと平安が溢れていますか?

今一度キリストの福音について思い起こし、

いのちと平安があふれる日々を過ごせることを願うのです。