聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

キリスト教とは④ 人は全てが罪人となってしまったことを信じている

今日はキリスト教とはというテーマで、

第4回目の記事を書こうと思います。

 

※こちらは約5400文字の記事となっています。

 

キリスト教とはというテーマで、

過去に3回の記事を書いてきました。

こちらにそのリンクを貼っておきます。

 

キリスト教とは①

seisyonosusume.hatenablog.com

 

キリスト教とは②

seisyonosusume.hatenablog.com

 

キリスト教とは③ 

seisyonosusume.hatenablog.com

 

今回はキリスト教とは④ということになりますが、

テーマは人は全てが罪人となってしまったことについてです。

 

はじめに 序論

 

キリスト教を信じている私たちは、

この世界に生きる全ての人が罪人である、

それはもちろん私たちも含めてそうである、

ということを信じています。

 

そしてこの部分がわからなければ、

キリスト教の救いについてわかりません。

 

何故ならばキリストとは、

罪人を救うために来られたお方だからです。

 

キリストは罪人を救うために来られたお方だあります。

故に自分は罪人ではないと考えている人々にとっては、

全く関係のないお話になってしまうということです。

 

しかし聖書が教えている重要な真理の一つとして、

全ての人が罪を犯してしまったと教えているのです。

義人と呼べる人は一人としていないということです。

 

この聖書の主張はある意味において、

人類に対する大きな挑戦状かもしれません。

 

何故ならば自分が罪人であるという認識は、

あまり人々の中にはないからです。

 

自分は人に迷惑をかけるような、

そんな悪いことはしてこなかったと。

どちらかと言えば正しく生きてきたのではないかと。

今まで真面目に誠実に生きてきたつもりであると。

 

多くの人はそう考えていると思います。

 

そしてその様に考える人々にとっては、

全ての人が罪人であると教えている、

聖書の主張は受け入れられないものです。

 

私が何をそんなに悪いことをしてきたのか、

何をもって私を罪人と決めつける事ができるのか、

普通はそう考えてしまうのであります。

 

聖書では全ての人が罪人だと語る。

しかし人々はそうは考えていない。

この様な違いがあるということです。

 

そこで今日私たちは、

では聖書が語る罪人とは具体的に何を言うのか、

その定義について詳しく考えていこうと思います。

 

聖書が語る罪人についての正しい定義を知るならば、

聖書の語る主張は決して大袈裟なものではない、

そう理解する事ができるはずであります。

 

今日はこのことについて四つのポイントで考えます。

1、聖書に見る罪の始まりについて

2、聖書の罪の定義について

3、罪人となってしまった結果について

4、生まれながらの罪人

 

では中身に入ってまいりましょう。

 

 

聖書に見る罪の始まりについて

人間が犯してしまった初めての罪について、

聖書の創世記3章で詳しく記しています。

 

少し長いのですがここに引用しましょう。

創世記3章1〜6節

1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。

3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」

4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」

6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

 

神によって初めて創造された人間であるアダムとエバが、

罪を犯してしまうという場面がここで記されています。

 

長い話を短くしてお話をすれば、

何が彼らの問題であったのかと言うと、

 

この木からは取って食べては駄目だと、

神によって強く命じられていたにも関わらずに、

彼らはそれをしてしまったということです。

 

神がアダムとエバを創造された時、

彼らをエデンと呼ばれる園に置かれました。

そして彼らはその園にある木の中から、

自由に取って食べても良いと言われていました。

 

ただ一つだけ、

取って食べてはならない木があり、

それ以外は自由に取って食べる事ができました。

 

しかし残念なことに彼らは、

ただ一つ駄目だと言われていたその木から、

取って食べてしまうということでありました。

 

それがすなわち彼らの罪となってしまったのです。

 

もちろん取って食べた行為が罪であることはもちろん、

それ以前に神の語られた一つの命令に背いたこと、

ここに彼らの罪の本質があると言えるのであります。

 

神よって創造された人間の罪の始まり、

それは神の語られる御言葉に背いてしまった

ということに人間の罪の始まりがあったのです。

 

聖書の罪の定義について

まず結論からお話しすると先ほども触れましたが、

神の語られる御言葉に背くことであり、

すなわちそれは神に背くことであるということです。

 

私たちは一般的に罪ということを考える時に、

犯罪ということについて考えると思うのです。

 

例えば人の物を盗んでしまったとか、

誰かに暴力を振るってしまったとか、

殺人事件を犯してしまったとか、

実際に表に現れる犯罪を思うのです。

 

しかし聖書が語る罪とは何かというと、

もちろんそれらのものを罪と言うのですが、

しかしそれらのものは罪の本質ではなく、

本質的な罪を犯してしまった結果として、

表に現れる罪を犯してしまうということです。

 

では表に現れる罪を犯してしまう原因となる、

罪の本質について聖書は何を語っているのか。

 

繰り返して言うように、

神の語られる御言葉に背くことであります。

その意味は神ご自身に背くことであります。

 

神によって創造された人間が、

創造者なる方に背を向けて生きること、

神なんかいないかのように生きてしまうこと、

これこそが罪の本質であるということです。

 

そして人が神に背を向けてしまう結果として、

具体的に表に現れる犯罪を犯すことになるのです。

 

英語で確認すればもっとわかりやすいのですが、

 

私たちが考えている犯罪について、

英語では『crime』と表現します。

 

しかし聖書で語る罪についてその単語を見るときに、

『crime』ではなく『sin』というように書かれてあります。

 

『crime』とは犯罪を意味する言葉であり、

『sin』とは宗教的な罪という意味の言葉です。

 

もっと噛み砕いて言うならば、

『sin』とは神を神とせずに生きることであり、

神に背を向け神なんていないかのように生きることです。

 

聖書はこの『sin』について語っているということです。

 

だからもし私たちが神を神とせずに生きるならば、

神に背を向け自分の好きなように生きているならば、

その人は罪人であると聖書は教えているのであります。

 

もちろん前回のブログ記事にも書いたように、

ここで言われる神とは聖書に登場する神であり、

すなわち天地万物を創造された創造者であり、

私たち人間をも創造された神のことをです。

 

アダムとエバは取って食べては駄目だと、

そのように神から言われていたにも関わらず、

彼らは取って食べてしまったということです。

 

取って食べた行為が罪であることはもちろん、

それ以前に神の語られた御言葉に背いたこと、

ここに罪の本質があるのだということです。

 

罪人となってしまった結果について

こちらも先に結論から言いましょう。

神の裁きを受けなければならなくなりました。

 

神の語られる御言葉に背き、

罪人となってしまった人間には、

その結果として神の裁きを受けるという、

そんな残念な結果となってしまったのです。

 

一つ聖書の御言葉を引用してみましょう。

 

ローマ6章23節

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 

ここで明確に言われていることがあって、

それは罪から来る報酬は死であるということです。

 

人が罪人となってしまった結果、

死という報酬を受けなければならないということです。

 

報酬とは何かをおこなったことに対する代価です。

労働をするならばそれに見合った報酬を受けます。

 

同じように罪人となった人間には、

死という報酬が準備されているということです。

 

ここで死ということについて考えますが、

ここで言われている死というのは、

単に私たちがこれから先に経験する、

肉体的な死だけを意味するものではありません。

 

もちろんそれも含まれていますが、

それ以上の意味が含まれている言葉です。

 

すなわちそれは永遠の滅びを意味する言葉です。

 

もっとわかりやすく具体的に言いましょう。

 

地獄の裁きということです。

 

聖書では天国と地獄の存在について、

真剣にそのことを語ってくださっています。

 

天国と地獄という話をするときに、

人々はそんなバカみたいな話と考えて、

嘲笑されてしまうことがあります。

 

しかし聖書はその存在について真剣に語っています。

超真面目に天国と地獄の存在を語っているのです。

 

罪から来る報酬は死であるということの、

究極的な意味は地獄の裁きであるということです。

 

もし私たちが罪の本当の定義について理解すれば、

地獄の裁きというものがあることについても、

大袈裟なことではないと理解できるのではないでしょうか。

 

何故ならば罪とは何か、

神から離れていくことだからです。

 

私たち人間を創造された神から離れて、

自分たちの心の赴くままに生きるようになったからです。

 

神の存在を否定して、

神なんかいないかのようにして生きるからです。

 

その結果神の裁きを受けなければならないという、

それが地獄の裁きであるということは、

決して大袈裟なことではないということです。

当然受けるべき報いであると言わざるを得ないのです。

 

何故ならば人間が自らその道を選択したからです。

 

このことについてはもっと書きたいことがありますが、

あまりにも長くなってしまうので今日はここまでにします。

 

生まれながらの罪人

最後に一つ重要なことをお話しいたします。

 

初めの人間であるアダムとエバが、

神に背き罪人となってしまったが故に、

その子孫として生きている私たちも、

罪人という立場を持って生きることになりました。

 

すなわち私たちは生まれながらにして、

罪人という立場を持っているということです。

ある日突然悪いことをして罪人になった、

ということではないということです。

 

聖書でこう教えています。

エペソ2章1〜3節

1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、

2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 

特に3節の最後の部分にこうあります。

 

生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

 

御怒りとは神の持っている罪に対するものです。

神は罪に対して御怒りを持っておられるということです。

それが具体的に地獄の裁きという形で現れるということです。

 

重要なことは生まれながらにして御怒りを受けるという部分です。

 

私たちはある日突然悪いことをして、

その結果として御怒りを受けるのではなく、

生まれながらにして身怒りを受ける者であった、

生まれた時から神の裁きを受けるべき罪人として、

生まれてきていたということを教えているのであります。

 

それは子供を見ればわかります。

 

私にも一歳になる息子がいるのでありますが、

親が悪いことを教えることがなくても、

子は自然と親に叱られることをするのです。

 

気に入らないと言って、

物を投げたりすることがあるのです。

 

気に入らないことがあれば、

物を投げなさいとは親は教えません。

 

しかし子はそれをするということです。

 

罪という性質を持っている人間は、

自然と悪いことを覚えるということです。

 

人は生まれた時から罪人であり、

その意味は神の裁きを受けることが、

決定されている者であるということです。

 

おわりに

今日私たちは人とは生まれながらにして罪人であり、

神の裁きを受けなければならないことを確認しました。

 

私たちは本来そのような者だったのです。

なんとも人の人生とは虚しいものでした。

 

しかしそのような私たちのために、

エスキリストがこの世界に誕生されました。

 

すなわち罪人となってしまった私たちを、

神の裁きという状態から救いへと導くために、

神の一人子イエスキリストが誕生されたのです。

 

もしイエスキリストの誕生がなければ、

私たちは今も虚しい人生でしかなかったのです。

 

しかしイエスキリストが誕生し、

そのお方を信じる信仰によって、

虚しい人生からの救いがなされるのです。

 

そのことについては次回のブログで書きます。

 

今日もかなりの長文となってしまいましたが、

この一つのことだけはしっかり覚えてほしいのです。

 

この世界に生きる全ての人間が、

神の御怒りを受けるべき罪人である

 

ということです。

 

それと同時に救いはあるということです。

 

www.ljpchurch.net

 

www.youtube.com

キリスト教とは③ 天地万物は神によって創造されたことを信じている

今日はキリスト教とはというテーマで、

第3回目の投稿となります。

 

※約4800文字の記事となっています。

 

キリスト教とはの過去記事はこちらになります。

 

キリスト教とは第1回目 

seisyonosusume.hatenablog.com

 

キリスト教とは第2回目

seisyonosusume.hatenablog.com

 

 

はじめに

現在シリーズでキリスト教とは何か。

キリスト教とは具体的に何を信じているのか。

というテーマで記事を書かせてもらっています。

 

キリスト教とは何を信じているのかの概要については、

第一回目の記事で書かせていただきました。

 

その概要はざっとこんな感じで7つのテーマです。

 

  1. 聖書が神の言葉であると信じている。
  2. 天地万物は神によって創造されたことを信じている。
  3. 人は全てが罪人となってしまったことを信じている。
  4. 罪人を救うためにキリストが来られたことを信じている。
  5. キリストの十字架による死と復活が私のためのものであると信じている。
  6. キリストを信じる者に永遠のいのちが与えられることを信じている。
  7. キリストが再び来られることを信じている。

 

前回第2回目の記事では1のテーマについて書きました。

今回は2のテーマについて記事を書こうと思います。

 

 

では早速中身に入っていきましょう。

 

神という存在について

まずはここから話を始めなければなりません。

神という存在について考えてみます。

 

世に生きる多くの人特に日日本人は、

こういう質問を持っていると思います。

 

神って本当に存在しているの?

 

もちろん私たちクリスチャンは、

この質問に対してYESと答えます。

神とは実在されている方であると信じるのです。

 

驚くことに聖書を見れば、

神が存在をしているのかどうかについて、

議論は一切なされていないということです。

 

当たり前に神という方が存在をしておられ、

そしてこの神によって天地万物が創造されたと、

聖書はそう教えているのであります。

 

神がいるのかいないのか、

多くの日本人にとっては重要な問題ですが、

聖書はその問題については触れることなく、

当然存在している方として記録されているのです。

 

だからといって日本人の中にも、

神の存在を認めていないことではありません。

日本には様々な神々の存在があると言われています。

 

八百万の神という言葉がありますが、

字の如く800万の神がいるということではなく、

それほど多くの神が存在をしているということです。

数え切ることができないほどの神というものが存在し、

日本人の多くはそれを信じているということです。

 

例えば日本のあらゆる所には、

神社仏閣が建てられています。

その中には神仏が祀られていると、

多くの人が信じているということです。

 

木や石や先祖を神として拝んだりもします。

また狐や狸やカエルまでも神として拝みます。

ある時には私たちと同じ人間をも、

神のような存在として讃えることがあるのです。

 

このように日本の中には実に多くの神が存在し、

人々はこの事実にあまり疑問を持たずに生活しています。

 

でも同時に神って本当に存在するのかという質問に対して、

多くの人が首を傾げてしまうのも事実であります。

 

多くの神々が存在しているにも関わらずに、

それらが本当に神なのかと問われると、

自信を持って神であるとは言えないという、

なんとも曖昧な立場にあるということです。

 

では聖書ではどう教えているのでしょうか。

 

神とは当然存在されるお方として書かれています。

はじめにも書いたようにそこに関する議論はありません。

神がいるのかいないのかの説明もなされていません。

当然存在されるお方として記録されているのです。

 

また聖書では神とは唯一であることを教えています。

神は神であるがゆえにお一方いればそれで十分であり、

何か不便でもあるかのように神々を必要とはしません。

 

では次のテーマでは聖書で語る神とは、

具体的にどのような神かについて考えます。

 

天地万物の創造者なる神

まず繰り返して語りたいことは、

聖書が語る神とは唯一なる神であります。

 

唯一であるとはこのお方以外に神と呼ばれるのは、

この世界の中に宇宙全体の中にも存在していない、

神は神お一方だけいれば十分であるということです。 

 

もちろん聖書の中では神について三位一体の神、

ということを教えている概念があります。

父と子と御霊なる神という考えです。

 

しかしこれは神が3人存在するということではなく、

3つの位がありながらもそれが一つであるということです。

 

実際この部分は難しいので今回はとりあえず、

聖書の語る神とは三位一体であり、

同時に唯一なる神である。

ということを理解してもらえたらと思います。

 

聖書が語る神とは唯一なる神であります。

 

またもう一つ今日はこれがメインテーマですが、

聖書で語られている神とはどのような神であるのか、

天地万物を創造された神であるということです。

 

聖書を一つ引用しましょう。

 

創世記1章1節

初めに、神が天と地を創造した。

 

これは聖書の一番はじめに記録されている言葉です。

聖書を開くとまずはじめにこの言葉と出会います。

 

初めに、神が天と地を創造した。

 

まずここからわかることは、

神というお方が初めに存在をされていたことです。

 

天地万物が創造される以前に、

すなわち私たちが現在生きている、

この世界が地上に現れる以前において、

神は既に存在をしておられたということです。

 

だからここからわかることは、

神とは初めから存在をしておられたお方であり、

ある日突然造られたような存在ではないということです。

 

初めから存在をしておられたお方であり、

自ら先に存在をされていたお方であるということです。

 

そしてそのお方によって何が行われたのか。

天地万物が創造されたということであります。

 

具体的な天地創造の内容については、

後ほど確認することにしたいと思います。

 

とにかくここで知ってほしいことは、

初めに存在をしておられた神によって、

天地万物この世界が創造されたということです。

 

すなわちこの世界の歴史は、

神によって始められたということです。

 

ある日突然気づけば、

このような世界があったことではなく、

 

神というお方が初めに存在をしておられ、

このお方によってこの世界が造られたということであり、

この世界の歴史の始まりは神にあるということであります。

 

そして聖書の天地創造の記録の中で、

明確に語られていることがあってそれは、

人間も神によってその時に創造されたということです。

 

すなわち私たち人間は、

神によって創造された被造物であったのです。

 

本当に感謝なことは、

私たち人間は猿から進化して、

今のような形姿になったのではないということです。

 

初めから神によって人間として創造されたということです。

 

猿は猿として創造されていて、

犬は犬として創造されていて、

猫は猫として創造されていて、

人間は人間として創造されていた、

これが聖書が明確に語られることであり、

これが聖書的価値観であるということです。

 

私たちの存在は偶然に存在をしているのではなく、

神によって創造された存在であることを教えるのです。

 

ここから何を知ることができますか。

 

この世界に生きる全ての人間が尊いことを教えます。

全ての人間が神によって創造された被造物であるゆえに、

神の目には高価で尊く大切な存在宝物であるということです。

 

私も神にとってそうであるように、

私の周りにいる人々もそうであります。

 

この記事を書いている時点において、

世界では人種差別について叫ばれています。

 

しかしもし私たちが聖書の価値観に戻るならば、

すなわち全ての人は神に創造された被造物であり、

その意味は全ての人が高価で尊い宝物であるという、

このことをしっかりと理解することが出来るならば、

 

現在起こっている人種差別はあってはならない、

全ての人間は黒くても白くても黄色でも平等である、

神に創造された大切な存在であると言えるのであります。

 

色や人種や文化や言葉や目に見える違いによって、

互いに差別をしあってはならないということです。

互いに裁きあってはならないということです。

 

聖書が語る神とは天地万物を創造された神である

 

そして私たち人間は神によって創造された被造物であり、

誰でもどんな人でも高価で尊い大切な存在である、

このことをぜひ知っていただきたいと願うのであります。

 

天地万物創造の具体的な中身

では具体的に神は天地万物の何を創造されたのでしょうか。

 

この部分は創世記1章を見れば具体的に記されていて、

全てを引用するとかなり長くなってしまうので、

簡単にここに記していきたいと思います。

 

第一日目 光

第二日目 空、水を上と下に分ける

第三日目 陸地と海とを分けられる、植物を生えさせる

第四日目 太陽、月、星、

第五日目 空の鳥、海の魚

第六日目 あらゆる動物、そして最後に人間

 

このように簡単ではありますが、

神はこれらのものを創造されたのです。

詳しくは聖書の創世記1章を読み確認ください。

 

ここで今日最後に注目してほしいことは、

全ての創造の最後に人間が創造されたことです。

 

実はここには大切な意味が含まれています。

 

すなわち全てのものを創造してから、

一番最後に人間を創造されたということです。

 

言い換えれば人間の尊さについて教えているのです。

 

例えば子供が妊娠したことを知った時、

その子供が誕生しても不便がないように、

親は全てを準備して誕生を待つということです。

 

それがベビーベッドであったり、

洋服とか肌着とか様々なものを準備するのです。

 

これから生まれてくる尊い子供のために、

親はしっかりと準備をするということです。

 

同じように神は人間がこの地上で生きるために、

全ての必要なものをあらかじめ準備され、

それが整ってから一番最後に人間を創造されたのです。

 

神にとって全ての被造物は尊いものであります。

 

しかしその中でも人間は特に尊い存在であり、

神にとって特別な存在であることを教えているのです。

 

先ほどの内容と繰り返しになりますが、

人間の存在とはそれほど尊いということを、

聖書は教えているのであります。

 

そして私たちにとって、

この聖書の価値観を土台として生きることが、

とても重要なこととなるということです。

 

どうして友達をいじめてはなりませんか?

子供たちに具体的にどう教えれば良いですか?

 

それはそのお友達も神によって創造された、

とても大切で高価で尊い存在だからです。

 

自分が神にとって高価で尊い宝物である、

同じようにお友達もそうであるということです。

 

神にとってはかけがえのない存在であり、

何にも変えがたいとても大切な存在であり、

だから互いにいじめたり暴力を振るったり、

誰かのものを奪ったりしてはならないということです。

 

何故人を殺す罪は重いのですか?

 

神によって創造された存在だからです。

神にとって高価で尊い宝物だからです。

 

神様にとっての宝物に、

私たちが傷をつけることをしてはならないのです。

 

何故人は自殺をしてはならないのですか?

 

あなたは神によって創造された、

高価で尊い宝物のような存在だからです。

神にとって特別に愛すべき存在だからです。

 

おわりに

最後にまとめます。

 

  1. 聖書の神は唯一なる神である

  2. 聖書の神は天地万物を創造された神である

  3. 私たち人間も神によって創造された被造物である

 

残念なことに多くの方は今もこの唯一の神を知らず、

本来神ではないものを神として拝んでいます。

 

神という名がついているから、

だから全てが神となるのではありません。

 

前回の第二回目のテーマでは、

聖書の言葉は神の言葉であることを見ました。

 

その神の言葉である聖書がこう語っているのです。

 

天地万物を創造された神は唯一なる神である

 

どうか全ての方々が真の神を知って、

正しい価値観の中で生きることを願っています。

そのためにこのブログを用いてくださいますように。

 

www.ljpchurch.net

 

www.youtube.com

後ろを忘れ前に向かおう 前進できない2つの理由

今日は後ろを忘れ前に向かう生き方、

というテーマで記事を書こうと思います。

 

※こちらの記事は約4000文字となっています。

 

テーマとなる聖書の御言葉はこちらです。

 

ピリピ3章13〜14節

13 兄弟たちよ。私は、すでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

 

 

13節の後半部分に記録されている、

 

うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、

 

という部分に注目して考えようと思います。

 

 

 

はじめに 前に向かって生きた人 ヨセフ

聖書の中に一つこういうお話があります。

ヨセフという人物についてのお話です。

 

彼はヤコブという父の家に生まれました。

彼には上に11人の兄がいて、

彼自身は下から二番目の息子でした。

 

聖書を見れば父のヤコブは、

12人いる息子の中でも特に、

ヨセフを愛していたということです。

ヨセフだけに特別な洋服も分け与えていました。

 

当然ほかの兄弟たちの心は穏やかではありません。

いつしか父の特別な愛を受けているヨセフに対して、

恨みを抱くようになってしまうということです。

 

やがてその恨みが具体的な形として現れ、

金と引き換えにヨセフを外国へ売り渡してしまうのです。

 

その結果ヨセフは全く知らない異国の地で、

しかも奴隷という立場で生きることになります。

それがエジプトの地でありポティファルという人の家でした。

 

しかしヨセフはそこで熱心に生きます。

与えられている仕事を熱心にこなしていき、

やがてポティファルの信頼を得ていくことになり、

ヨセフはポティファルの財産を管理する立場に昇格します。

 

財産が預けられるということは相当の信頼を得たということです。

 

ヨセフは彼が置かれている現実を見るときに、

兄たちを恨むこともできたし憎むこともできたし、

何よりもこんな状況を許される神を疑うこともできました。

 

しかし重要なことは、

ヨセフはそれを選択しませんでした。

恨みとか憎しみとか疑いとか、

否定的な部分を選択することはしません。

 

彼の選択はそれでも神を見上げて、

与えられている立場で熱心に生きるのです。

 

すなわち今日の聖書の言葉を使うならば、

後ろのものを忘れ前に向かう生き方を実践しています。

 

実はヨセフの人生にはこの後にも、

山あり谷ありの実に波乱万丈な人生を送ります。

 

しかしどういう状況にあっても、

ヨセフは憎しみとか恨みとか失望とか、

そのような否定的なものを選択せずに、

 

いつでもどんな時でも彼は変わることなく、

与えられている立場で神を見上げ熱心に生きるのです。

 

そんな彼は最終的にエジプトの総理となります。

王であるパロの次に位の高い地位を得ることになり、

エジプトだけではなく周辺諸国にも影響を与える人物として、

何よりもヨセフは後に父や兄弟たちとの再会を果たし、

家族が一緒にエジプトで平安に暮らすことになるという、

驚くべき祝福を得て生きることになっていくのです。

 

それはもちろん神の恵みの故でありますが、

ヨセフがひとえに正しい選択をしたことにあるのです。

 

すなわち後ろのものを忘れ、

ひたむきに前に向かう生き方を、

実践していったことにあるということです。

 

このようなヨセフの生き方から、

今日私たちも学びたいと願うのです。

 

すなわち前に向かう生き方です。

 

後ろを忘れ前に向かう生き方の中にこそ、

私たちに明るい未来への希望を見せてくれます。

 

でも現実としてどうでしょうか。

私たちはそのように生きているでしょうか。

 

多くの場合前に向かうことのできない、

そんな人生を生きているのではないかと思います。

 

私ももちろんその一人です。

 

そこで今日は前に向かう人生を生きる為に、

私たちに必要なことを学ぼうと思います。

 

前に向かうことのできない理由は何か

私たちが前に向かうことのできない理由は何か、

それを二つの視点で考えていこうと思います。

 

過去の失敗とか出来事に捕われている。

過去の失敗に捕われていることによって、

私たちは前に向かって進めないということが起こります。

 

例えば私は現在キリスト教会の牧師をしているのですが、

私がもっと自信を持って牧師としての働きを進める為に、

一つの思いがそれを阻んでいるのではと思わされています。

 

その一つの思いとは、

過去にあまり勉強をしてこなかったという、

私の中にある一つの劣等感であります。

 

私は子供の頃から勉強があまり好きではなく、

読書とかも自ら好んですることはありませんでした。

大人たちの忠告の言葉も無視しながら生きるような、

自分さえ楽しければという思いの中で生きていました。

 

もちろんその楽しさとは、

私の肉の思いを喜ばせる楽しさであり、

ある意味正常的な楽しさではありませんでした。

 

そんな私がキリスト教会の牧師になり、

現在に至るまで15年勤めてきたのでありますが、

いつもこの勉強してこなかったという思いが、

私の心に自信を失わせてしまうということです。

 

今日の御言葉から考えるならば、

いつまでもそのような思いに捕らわれずに、

勉強してこなかったのならば今からやれば良い

ということになると思うのでありますが、

 

どうしても私の中で、

今からやっても遅いのではないかという、

そのような否定的な思いが芽生えてくるのです。

 

しかし今日もう一度この御言葉を読みながら、

そう今からまた勉強を始めれば良いという、

今日からがまた新しいスタートであるという、

そのような思いが再び与えられていくのです。

 

私たちが前に向かうことができないならば、

その理由の一つ目として、

過去の失敗とか出来事に捕らわれていることです。

 

続いて二つ目について確認しましょう。

 

将来に対する不安を持っている

将来に対する不安を持っているならば、

私たちは中々前に向かうことができません。

 

人は多くの場合において、

起こり得るはずのないことまで心配して、

前に向かって生きることができないということです。

 

例えば私の場合で言うならば、

教会に人々を集めていくことのために、

様々な企画を練って実践しようとします。

 

しかし今までも様々な企画を練って、

実際開催をしてきたのでありますが、

多くの場合人を集めるという部分において、

失敗をしているということです。

人が思うように集まってくれないのです。

 

そこでさらに新しいことを企画しようとしても、

どうせ今回も人は集まってくれないだろうという、

ある意味確信的な思い?笑

の中で何もできなくなってしまうという、

前に向かうことを躊躇してしまうということです。

 

もちろんしっかりと考えることは大切です。

 

しかし身動きができなくなるほど、

考え過ぎてしまうのは問題であります。

 

やらなければわからないということがあるのです。

 

実際私たちの教会の韓国料理教室の集まりは、

現在はもちろんコロナの問題でお休みですが、

しかしほぼ12年ほど毎月一度集まって、

だいたい毎回10名ほどのかたがたと共に、

楽しい時間を過ごす機会を持っています。

 

将来のことをあまりにも考え過ぎてやらないよりは、

とりあえずやってみるという考えが正しかったりして、

例えば10発打てば1発は当たるみたいな体験をします。

1発も打たなければ何も起こらないということです。

 

考えることはもちろん否定しません。

 

考えるべきです。

作戦を練るべきです。

 

しかし多くの場合起こり得ないことまで心配し、

身動きが取れなくなるということがあるのです。

 

心配しすぎる思いを脱ぎ捨てて、

前進をしていくべき時があります。

 

結論 前に向かって進め

最後にイエスキリストの人生を考えましょう。

エスキリストこそ前に向かっていく人生でした。

 

彼は最終的に十字架という刑罰にまで向かっていきます。

その先にあるのは死であると知りながらも躊躇しません。

歩むべき道をひたすら前に向かって歩んでいくのです。

 

実際キリストは十字架にかかります。

そして十字架上で死んでしまうことになります。

 

しかし聖書では驚くべきことを教えていて、

キリストは死で終わったお方ではありませんでした。

なんとその後三日目によみがえられたということです。

 

死という最終的な敵にも勝利をして、

よみがえられたということです。

 

ここで一つ明確にされることは、

よみがえりという偉大な奇跡を体験するためには、

その前の十字架への歩みが必要だったことです。

 

十字架に向かって歩むという部分がなければ、

死は無かったしよみがえりもありませんでした。

 

これが信仰者に与えられている約束なのです。

 

私たちの人生にも失敗とか過ちは起こります。

不安に思っていた出来事が、

そのまま降りかかることもあります。

 

しかし私たちが知っていることは、

それら全てのことも益と変わるということです。

 

失敗が失敗のままで終わらず、

不安な状況が最終結末ではなく、

それらの状況をも益と変えられるという、

マイナスがプラスとなる体験というものを、

キリストを信じて生きる者に約束されているのです。

 

だから私たちは今日から再び、

何をも恐れることなく必要以上に心配せず、

ひたむきに前に向かって歩めば良いということです。

 

最後に一つ御言葉を引用しましょう。

 

ローマ8章28節

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。

 

過去の思いを振り切って、

将来の不安を脱ぎ捨てて、

今この時からまた新しい心で、

前に向かって歩めば良いのです。

 

失敗することもちろんあるでしょう。

不安な思いがそのまま降りかかることあるでしょう。

 

しかしそれら全てが益と変えられるという、

そのような体験を私たちはしていくはずです。

 

十字架に向かっていかなければ、

死もなくその後のよみがえりもありません。

 

前進していくときにこそ体験できる喜び

 

というものが私たちの人生には準備されているのです。 

 

これがキリストを信じる者の、

信仰であり確信であり希望であります。

 

www.ljpchurch.net

 

www.youtube.com

伝道したい!でも何を語れば良いの? 4つのステップ

今日書こうとしているテーマは、

福音を宣べ伝えようということについてです。

 

※約6500文字の長文です。

 

はじめに

 

まず聖書の御言葉を一つ引用します。

 

マルコ16章15節

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

 

これはイエスキリストが死の中から復活をし、

そののち天にあげられるまでの間に語られた、

キリストの弟子たちに対する大宣教命令です。

 

福音を全世界に伝えよという、

大宣教命令であります。

 

そしてこれは当時キリストの弟子として生きていた、

彼らにだけ語られている内容ではなく、

今この時代においてキリストを信じ救われた者に対して、

語られている重要な内容であるということです。

 

キリストを信じて救われた人々は、

このような使命を持って生きることであります。

 

すなわち福音を全世界に伝えるという使命です。

 

神の持っておられる計画は私たちが救われて、

永遠のいのちへと至ることであります。

 

しかし私たちが救われたということだけで、

神の持っている計画の全ては成就していません。

 

では神の持っておられる計画の全てとは何でしょうか。

 

それは私たちが救われることを通して、

さらに多くの人が救われるようにということです。

 

私だけが救われてそれで終わりではありません。

 

私が救われることによって、

私の周りにいる全ての方々が救われるようにと、

これが神の持っておられる計画の全てであります。

 

神は全世界に生きる人々が救われることを願っておられ、

そのためにまず私たちを先に救ってくださったのです。

 

だから先に救いへと導かれたクリスチャンは、

この使命をしっかりと握って日々を生きることです。

 

私を通して周りにいる方々が救われますように。

 

このような祈りと願いというものを、

私たちは常に持ち合わせていることが大切です。

 

もう一つ聖書の御言葉を引用します。

 

ローマ10章14節

しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

 

ここで特に注目するべき御言葉はこちらです。

 

聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。

 

私たちもそうだったように、

誰かがキリストの福音を伝えてくれなければ、

それを聞くことも信じることもできないのです。

 

私にも本当に感謝なことに、

キリストの福音を伝えてくれる人がいました。

 

もちろん聞いてすぐに信じたことではありません。

 

しかしこの聞くということから始まって、

キリストの福音を信じるに至ったということです。

 

私たちの周りにいる方々が救われるためには、

先に救われた私たちが語らなければなりません。

 

ではここで私たちが考えたいことは、

具体的に何を伝えたら良いのかということです。

 

福音を伝えれば良いということですが、

では具体的に福音の内容について、

何を語っていけば良いのかについてです。

 

4つのポイントで確認いたします。

・人は救いが必要な存在である

・具体的には神の裁きからの救いである

・神の裁きを受ける理由は人が罪人となったから

・イエスキリストによる救い

 

今日はこの内容を理解した上で、

多くの人々に福音を知らせる足として、

私たちが用いられるようにと願っています。

日本中が世界中が福音によって満ち溢れますように。

 

 

語るべき福音の具体的な内容

人は救いが必要な存在である

まずはじめに伝えるべき重要なことは、

人とは救いが必要な存在であるということです。

 

その意味はイエスキリストの福音は、

この世界に生きる全ての人に対するものであり、

ある特定の人のためのものではないということです。

 

私は現在キリストの福音によって、

それを信じ救いを得ることができました。

 

しかしそれは私だけに必要であったものではなく、

実はこの世界に生きる全ての人に必要なものであり、

ただ単に私たちはこの事実に気づいていないだけなのです。

 

私自身も救いを必要としている者であったとは、

福音を聞くまでは知る由もありませんでした。

 

しかし今は救いが必要な者であったことを知り、

それは私だけではなく私の周りにおられる、

全ての人々に必要なものであるということが、

福音の内容を知ることによって理解できたのです。

 

聖書ではこう語られています。

 

第一テモテ2章4節

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

 

神が望んでおられることとは、

全ての人が救われることにあります。

 

逆を言えば、

全ての人が救いを必要としているということであり、

救いを必要としない人は一人としていないということです。

 

 

まず第一段階として、

私は救いを必要とする者である、

このことを認識してもらうことです。

 

次の項目では具体的に何から救われるべきかを書きます。

 

神の裁きからの救い

では具体的に人とは何から救われる必要があると、

聖書では教えていることでしょうか。

 

それは神の裁きからであります。

 

人は全て神の裁きからの救い、

というものを必要としているのです。

 

すなわち私たちはこのまま何もせずにいれば、

神の裁きというものを受けなければならないという、

そのような恐ろしい結果が待っているということです。

 

では具体的に神の裁きとは何でしょうか。

どういう裁きを受けなければならないのでしょうか。

 

地獄の裁きの中に置かれるということです。

 

天国と地獄という言葉を使うと、

映画の世界かおとぎ話の世界かと思われ、

そんなバカな話があるかと失笑されてしまうのですが、

聖書ではそれが現実にあることを教えているのです。

 

聖書から確認してみましょう。

まず裁きがあることについてです。

 

ローマ2章5節

ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。

 

神による正しい裁きの日が定められていることを教えています。

 

また具体的な裁きの内容についてはこちらです。

少し長いですが重要ですので確認ください。

 

黙示録20章12〜15節

12 また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物が開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。

13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。

14 それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

15 いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

 

ここで注目することは14節と15節にある、

火の池に投げ込まれたということです。

 

神の裁きとは火の池に投げ込まれることであり、

火の池が燃えている場所を地獄と呼ぶのです。

 

またもう一つ上の御言葉で注目する言葉は、

いのちの書に名がしるされていない者は、

この火の池の中に投げ込まれるということです。

 

では誰がいのちの書に名が記されていて、

また誰が記されていないのかということですが、

 

それはその人が救われているのか、

救われていないのかということです。

 

救いを得た人はいのちの書に名が記されており、

救いを得ていない人は記されていないということです。

 

救いを得ているのか得ていないのか、

これが重要なポイントであることを教えています。

 

私たちはこの地獄の裁きの中から、

救われる必要がある存在であるということであり、

このことを人々に語っていかなければなりません。

 

では次の項目では、

神の裁きを受けなければならない理由についてです。

 

罪人となってしまった人間

どうして私たちは神の裁き、

地獄の裁きを受けなければなりませんか、

ということについて考えたいと思います。

 

結論から言うならば、

私たちが罪人となってしまったからです。

 

聖書の御言葉にはこうあります。

 

 ローマ3章10節

それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。

 

実はこの短い聖書箇所の中に、

私たちが悟るべき重要な真理があって、

それは義人は一人としていないということです。

 

聖書が主張されている一つのことは、

この世界に生きる人の中で、

義人と呼べる人は一人もいないということです。

 

言い換えるならば、

全ての人が罪人であるということです。

 

この世界に生きる全ての人が、

罪人となってしまったという教えです。

 

どんな人であったとしても、

たとえ人々から称賛されるような、

立派に素晴らしく生きた人であっても、

神の目には全てが罪人であると教えているのです。

 

もちろん私も含めて世界に生きる全ての人が、

神の目から見るならば罪人であるということです。

 

ではここで起こる質問とは、

どうして私が罪人となってしまうのか、

罪人と言われるようなそんな悪いことはしていない、

聖書の教えは少しばかり大袈裟ではないかということです。

 

確かにそうです。

私の周りを見てもこの人は罪人だと断言できるような、

そこまで悪いと思える人は存在していないのです。

 

周りにいる人々は大抵は優しくて真面目で、

正しく生きているような見えるということです。

いわゆる良い人と言える人々の方が多いのです。

 

ところが聖書が語ることは、

全ての人が罪人であると教えているのです。

 

ではここで考えることは、

聖書は何のゆえに私たちを罪人だと語るのか、

私たちが罪人であることの定義についてです。

 

一般的に罪人という言葉でイメージするのは、

犯罪者とか刑務所にお世話になるような人、

というイメージを持つのではないかと思います。

 

英語で言い表すならば『Crime』です。

 

しかし神様が語る罪人という言葉を、

英語で言い表すならば『Sin』です。

 

私たちが罪人ということを考えるときには、

いつも『Crime』を考えるということです。

しかし聖書の罪とは『Sin』であるということです。

 

ではここで重要なことは、

聖書で語る罪『Sin』とはどういう意味かです。

 

辞書で調べてみると『Sin』とは、

宗教的な罪であると書かれてあります。

 

一方で辞書で『Crime』を見ると、

法律上の犯罪とか罪と書かれてあります。

 

すなわち聖書で語る罪人の定義とは何か、

それは宗教的な罪を犯した人のことであり、

もっと砕いて言えば神を神としないことです。

神を神とせず神に背を向けて生きることです。

 

よく私たちクリスチャンは、

『悔い改める』という言葉を使います。

 

『悔い改める』の意味は何かと言うと、

方向転換を表す意味の言葉であります。

 

すなわち今まで向いていた方向から、

『悔い改める』方向転換をすることです。

 

言い換えれば神に背を向けていた人生から、

神に向かって生きる人生へと方向転換をする、

すなわちこれを『悔い改め』と言うのです。

 

全ての人間が罪人であると教えることには、

実はこのような定義があったということです。

 

神を神とせず神に背を向けて生きること

 

神という存在を全く無視して、

自分たちの好きなように生きるのならば、

これこそ罪であり罪の本質と言えるものなのです。

 

もちろん目に見える悪い行いをも罪でありますが、

しかしそれは罪の本質に付随するものであり、

全ては『Sin』から始まっているということです。

 

罪人『Sinner』であるならば、

もしそこから『悔い改め』をしないならば、

その人の最後は神の裁きであると教えているのです。

 

もう一度上の三つをまとめると、

・人は救いが必要な存在である

・具体的には神の裁きからの救いである

・神の裁きを受ける理由は人が罪人となったから

ということになります。

 

罪人である私たちには、

神の裁きが定められています。

 

しかし同時に聖書では、

罪人となってしまい神の裁きを受けるべき私たちが、

その裁きから救われるための方法について教えているのです。

 

最後にこの部分について記します。

 

エスキリストによる救い

 まず一つ聖書の御言葉を確認します。

 

マルコ2章17節

エスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 

まずここで注目するイエスキリストの言葉は、

正しい人を招くためではなく、

罪人を招くために来たということです。

 

そうです。

エスキリストは罪人を招くために、

言い換えれば罪人を救うために、

この世界へ来られたということです。

 

エスキリストがこの世界に生きてくださり、

具体的に行われた一つの出来事を通して、

罪人が救われる道を開いてくださったのです。

 

その一つの出来事とは、

 

十字架で死なれたことであり、

その後の三日目のよみがえりです。

 

エスキリストが十字架で死なれ、

死なれた後三日目に復活されたことにより、

罪人が救われる道が開かれたということです。

 

 

このことについて本気で説明すれば、

一つのブログ記事が書けてしまうほどの

長い文章となってしまうので、

ここでは本気の説明を避けて、

簡単に説明しようと思います。

 

神の子として来られたイエスキリスト。

 

その意味は罪の全くない汚れの全くない、

完全に清いお方であるということです。

 

そのようなお方が、

全人類の持っている罪を一手に引き受けて、

十字架にかかって死んでくださったのです。

 

本来ならば罪人である私たちが、

受けなければならない刑罰でしたが、

神の子であるイエスキリスト様が、

私たちに変わって刑罰を受けられたのです。

 

 

すなわち罪人である私たちが受けるべき神の裁きを

エスキリストが身代わりとなって受けられたのです。

 

これがイエスキリストの十字架の死の本当の意味です。

 

また十字架で死なれたイエスキリストは、

死の後三日目によみがえられました。

 

その意味は何かと言うと、

これ以上罪人としてではない、

神に赦された新しい人として、

すなわち神に認められた義人として、

生まれ変わりましたという意味であります。

 

エスキリストの十字架の死と、

死の後三日目のよみがえりには、

このような意味があったのです。

 

罪人である私のための十字架であり復活でした。

 

終わりに イエスを信じる者は救われる

私たちは本来神の裁きを受けなければならない、

そのような罪人であったということです。

 

しかし同時に神の裁きから救われる道について、

聖書は教えてくださっているということです。

 

それがエスキリストを信じることです。

 

エスキリストが罪人である私たちの代わりに、

十字架で死なれることによって、

神の裁きの全てを受けてくださいました。

 

神の裁きを受けて死なれたイエスキリストは、

その後三日目に死人の中から復活されました。

 

すなわち古い罪人としての姿が死んで、

神に認められる罪赦された義人として、

新しく生きる者とされたということです。

 

もしこの時に私たちがこのお方、

エスキリストを信じるならば、

我が救い主として受け入れるならば、

 

その瞬間にその人の罪は赦されて、

永遠の救いの中へと導かれます。

 

エスキリストを信じる信仰が、

私たちを神の裁きから救うのです。

罪人という状態から義人へと移されるのです。

 

最後に一つの御言葉を確認しましょう。

 

ローマ10章9〜10節

9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 

まず大切なことは、

自分は神の裁きからの救いを必要とする、

罪人であるということを認めることです。

 

そして次には、

神の裁きからの救いの道を完成された、

エスキリストを救い主として信じることです。

 

その人はその瞬間から罪赦されて、

永遠の救いを受け取っていくことになります。

地獄の裁きから天国の報いへと移されるのです。

 

最後までこの長文にお付き合いでくださり感謝します。

この文章を読まれた全ての方々に救いがありますように。

またクリスチャンの方はますます伝道に励まれますように。

 

www.ljpchurch.net

 

www.youtube.com

キリスト教とは② 聖書が神の言葉であると信じている

今日はキリスト教とはについて第2回目の投稿です。

 

※約3800文字の記事です。

 

はじめに

 

前回の投稿ではキリスト教とはというテーマで、

第1回目の記事を書かせていただきました。

 

具体的にはキリスト教とは何を信じているのか、

その概要的な部分を7つのテーマで説明しました。

 

その7つのテーマがこちらになります。 

  1. 聖書が神の言葉であると信じている。
  2. 天地万物は神によって創造されたことを信じている。
  3. 人は全てが罪人となってしまったことを信じている。
  4. 罪人を救うためにキリストが来られたことを信じている。
  5. キリストの十字架による死と復活が私のためのものであると信じている。
  6. キリストを信じる者に永遠のいのちが与えられることを信じている。
  7. キリストが再び来られることを信じている。

もしよければこちらのリンクからどうぞ。

 

seisyonosusume.hatenablog.com

 

そこで第2回目の今日の投稿からは、

その7つのテーマについてさらに深掘りし、

一つ一つを詳しく説明しようと思っています。

 

キリスト教とはのシリーズの投稿を通して、

多くの方がキリスト教について知ることができ、

最終的に信仰へと導かれたらと願っています。

 

本日は聖書が神の言葉であると信じているというテーマです。

 

それでは中身に入っていきましょう。

 

 

聖書が神の言葉であると信じている

聖書とはどういう書物か 概要について

聖書という書物についてまず概要を説明しようと思います。

 

聖書とは66巻の書簡が一つに合わさったものです。

大まかには2つに分けることができ、

旧約聖書新約聖書であります。

 

旧約聖書の中には39巻の書簡が含まれており、

新約聖書の中には27巻の書簡が含まれています。

 

旧約聖書の中でよく知られている書簡と言えば、

創世記とか、出エジプト記とか、

詩篇箴言などが知られているところかなと思います。

これら以外にも35の書簡が旧約聖書に含まれています。

 

新約聖書の中でよく知られている書簡と言えば、

マタイによる福音書ヨハネの黙示録とかでしょうか。

これらの書簡以外にも25の書簡が新約聖書に含まれています。

 

旧約聖書の39巻と新約聖書の27巻を合わせた、

66巻の書物を一冊にまとめたものが聖書であります。

 

ちなみに聖書という書物は、

世界の言語(約3000語以上)に翻訳されていて、

一年に少なくても5000万冊以上が売られているという、

有史以来不動の大ベストセラーの本となっています。

 

有史以来多くの人物が手にし影響を受けてきた聖書、

ぜひ皆様も手に取って読んでみてはいかがでしょうか。

 

 

アプリで聖書を聴くこともできます。

聴くドラマ聖書というアプリです。

有名な俳優さんたちによる迫真の演技によって、

聖書の言葉が臨場感を持って聴く人々に迫ってきます。

聴くドラマ聖書

聴くドラマ聖書

apps.apple.com

 

聖書とは誰によっていつ書かれたのか

まず誰によって書かれたということですが、

40名の人々によって書かれたものであります。

 

代表的な人物の名をあげるならば、

モーセであり、ダビデであり、パウロです。

これ以外にも多くの人物によって記されたものです。

 

その40名の人々の中には、

農夫や漁師や羊飼いであったり、

王様や政治家、学者や法律家など、

実に様々な立場の人々がいました。

 

また生きていた時代も国も言葉も状況も、

みなそれぞれ違っていました。

 

ではいつ書かれたのかということですが、

紀元前1400年頃から紀元後90年代まで、

実に1500年にわたって記録されたものです。

 

これだけ生きていた時代も違い、

言葉も文化も習慣も立場も国も、

全く違う状況にありながらでも、

驚くことがあってそれは、

 

彼らが1つの場所に集まって、

その内容をすり合わせて計画をしていたかのように、

聖書の内容には一貫性があり統一性があることです。

 

どうしてそういうことが起こるのでしょうか、

単なる偶然が重ねっていることでしょうか。

そうではありません。

 

実は聖書では本当の著者の存在を教えています。

 

それが神様の存在であります。

 

聖書の本当の著者

ここで1つ聖書の言葉を引用いたします。

 

テモテへの手紙第二3章16節

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

 

聖書とはどういう書物かを知るために、

ここにとても重要な言葉が記されています。

 

聖書はすべて、神の霊感によるもので

 

66巻の書簡が含まれている聖書は、

それら全てが神の霊感によって書かれていると、

聖書はそう教えているのであります。

 

どういうことでしょうか。

 

確かに聖書は先ほども言ったように、

40名もの人々によって記されたものです。

 

しかし重要なことが何かと言うと、

聖書に書かれてある内容の1つ1つは、

40名の人々の考えとか哲学とか、

そういうものが書かれてあるのではなくて、

 

この40人の人々に神の霊感が与えられて、

それによって書き記された内容であるということです。

 

神がその40名の人々を選び、

彼らに神ご自身の霊感を与えられたのです。

 

そしてその霊感を受けた人々がそれに動かされ、

聖書の言葉を書き記していったということです。

 

それが聖書の言葉として残されているということです。

 

すなわち聖書の本当の著者がいて、

それが神様という存在であるということです。

 

 

だから聖書の書かれている内容には、

統一性があるし一貫性があるということです。

 

生きていた時代が違っていても、

国や言葉や状況や立場が違っていても、

その本当の著者が神様であるがゆえに、

神様が彼らを通してご自身の言葉を書かれたがゆえに、

聖書には統一性があるし一貫性があるということです。

 

ゆえに聖書の言葉とは神の言葉と言えるのです。

 

神の言葉である聖書を読む人々に起こること

聖書が神の言葉であることについて、

ここまで学んでくることができました。

 

では実際に神の言葉に私たちが触れる時、

具体的にどんなことが起こるのかということです。

 

それについてはいくつもあるのですが、

今日はここで1つだけを明確にします。

 

それは人々が生きるということです。

 

聖書の言葉を1つ引用します。

 

マタイ4章4節

エスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。

 

ここを見れば人はパンだけで生きるのではないと、

神の口から出る一つ一つのことばによるとあります。

 

人が生きるためにはパンだけではない、

神の口から出ることばが必要であると教えています。

 

どういうことかというと、

 

人はパンさえあれば生きていけると考えています。

しかし実際はそうではないということです。

 

ではパンとは何でしょうか。

目に見えるものであります。

 

具体的に言えば、

 

食物であり、

飲料であり、

衣料であり、

学業であり、

職業であり、

物質であり、

地位であり、

名誉であり、

健康であり、

 

これ以外にもありますが、

一般的に私たちが必要だと考えているものです。

 

もちろんこれら全ては、

私たちが生きるために必要なものです。

どれも疎かにする内容ではありません。

 

しかしこれらのものがあったとしても、

神の言葉が失われているということならば、

その人は本当の意味で生きてはいないということ。

 

言い換えれば、

本当に意味での幸せな人生とはならないということです。

 

神の言葉によって生きるということが、

実は私たちにとって最も重要な部分であり、

これさえあるならば私たちは本当に幸いと思える、

心が満たされた人生になると教えているのです。

 

たとえ物資が少なかったとしても、

健康を損なってしまうことがあったとしても、

地位や名誉を得ることができなかったとしても、

学歴や職歴が人より劣っていたとしても、

 

神の言葉によって生きているということならば、

その人は心が満たされた幸いと思える人生となると、

聖書はそう教えているのであります。

 

私たちは目に見えるものをたくさん持っていても、

これで満足ということには残念ながらなりません。

 

目に見えるものを追い求めることには、

私たちは限界がないということです。

そこにあるのは満足感ではなく、

常に飢え渇いているという状況です。

 

しかしもし神の言葉さえ持っているならば、

神の言葉を握って生きているということならば、

その人は真に心が満たされている人生となるのです。

 

どうしてでしょうか。

人は神によって創造された存在だからです。

このテーマについては次回投稿するつもりです。

 

神によって創造された存在であるゆえに、

私たちにはどうしても神の言葉が必要なのです。

 

神の言葉が私たちの中に入るときに、

私たちは本当の意味で生きていると言える、

そういう人生を生きることができるのであります。

 

おわりに

 

最後までこの長文を読んでくださり感謝します。

おわりにもう一度読んでくれた皆さまにお勧めします。

 

聖書を読んでみてください。

あるいは聴いてみてください。

 

聖書の言葉が私たちの中に入る時、

私たちの心は不思議と平安で満たされます。

 

私たち人間の存在と神様の言葉との関係は、

切っても切り離すことのできないものであり、

どうしてもなくてはならないものであります。

 

このことを一人でも多くの方に、

体験していただきたいと願っています。

 

www.ljpchurch.net

 

www.youtube.com

 

キリスト教とは① 何を信じているのか 人生に起こる問題の本質を問う

今日はキリスト教とは一体何を信じているのか、

というテーマで書いていこうと思います。

 

※こちらの記事は約6000文字の長文です。

 

これはかなり壮大なテーマであるし、

ブログの1記事だけで説明できるような、

そんな簡単な内容ではありません。

 

しかしなるべく簡単にわかりやすく、

この記事を見るだけでキリスト教について、

その概要がわかるような記事にしたいと思っています。

 

はじめに

まずこの記事を書こうと思ったのは、

これからもしかしたらキリスト教に関心を持つ、

そのような人が増えるかもしれないと思ったからです。

 

コロナ時代を迎えて、

今までの常識とか価値観が通用しなくなり、

人々は様々な問題の中に置かれ苦しみもがいています。

 

それはもちろん私も同じであり、

今後どのように人生設計を計画していくべきか、

答えを見つけることができずに不安になったりするのです。

 

現実的なことを考えるならば、

不安や悩みに押しつぶされそうです。

 

しかしその中にあっても私の心には、

基本的には平安があるということです。

 

様々な試練や困難はあるのですが、

その中でも基本的には平安を保って、

生きていくことができるということです。

 

それは何故かというと、

聖書の御言葉という真理を持っているからです。

 

真理とは何があっても揺れ動かないものであり、

状況によって変化されるものを真理とは言いません。

 

聖書の御言葉を信じて生きるようになってから、

私はもう22年という年月が経過しましたが、

今も変わらず聖書の真理から大切なことを学び、

それが私の人生に大きな影響を与えています。

その最たるものは心の平安であり安心という部分です。

 

これから世界や個人の生活は残念ながら、

ますます難しい状況を迎えることになりそうです。

 

しかしその中にあっても、

私たちが力強く生きれる秘訣があって、

それが神を信じて生きることにあるのです。

真理をしっかり掴んで生きることにあるのです。

 

これから困難を迎える世界情勢にあって、

一人でも多くの方がこの真理と出会い、

心には平安があるという人生を生きて欲しい、

そう願ってこの記事を書こうと思っています。

 

 

 

キリスト教とは何を信じているのか

ではまずキリスト教とは具体的に何を信じているのか、

ということについて書いていこうと思います。

信じている内容の概要についてです。

 

  1. 聖書が神の言葉であると信じている。
  2. 天地万物は神によって創造されたことを信じている。
  3. 人は全てが罪人となってしまったことを信じている。
  4. 罪人を救うためにキリストが来られたことを信じている。
  5. キリストの十字架の死と復活が私のためのものであると信じている。
  6. キリストを信じる者に永遠のいのちが与えられることを信じている。
  7. キリストが再び来られることを信じている。

 

これ以外にも細かく言えばいくらでもあるのですが、

とりあえずこのことを知っておけば良いかと思います。

 

一つ一つ簡単ではありますが説明いたします。

(今後詳しい内容をテーマごとに1記事づつ書こうと思っています)

 

聖書が神の言葉であると信じている

キリスト教を信じている者は第一番目に、

聖書が神の言葉であると信じています。

 

聖書の中には聖書についてこういう説明があって、

 

聖書はすべて神の霊感によるものということです。

 

確かに聖書とは人々の手によって記されたものです。

しかしその背後には本当の著者が存在をしていて、

それが神という存在であるということです。

 

これを書き記した人々に神がご自身の霊感を与え、

その霊の感動を受けた人々がそのままを記した内容が、

聖書の言葉として書き記されているということです。

 

だから私たちは聖書を読むたびに、

毎回新しい力をいただくことができるのです。

 

聖書は永遠のベストセラーと言われていますが、

今も多くの人々の人生に影響を与え続けています。

 

それはひとえに聖書の言葉が神の言葉だからです。

神の言葉に触れる時私たちは新しい力をいただき、

問題の中にあっても心の平安を持って生きる力、

それが聖書の御言葉であるということです。

 

聖書が神の言葉であることについて、

さらに詳しい内容を書いてみました。

時間の許される時にでもどうぞ。

 

seisyonosusume.hatenablog.com

 

天地万物は神によって創造されたと信じている

キリスト教を信じている者は第二番目に、

天地万物は神によって創造されたと信じています。

別の言い方をすれば私たちの信じている神とは、

天地万物を創造された神であるということです。

 

天地万物が存在をする以前から、

神というお方が存在をしておられ、

そしてこの神によって天地万物が創造された。

この世界の歴史は神によって始まったということです。

 

偶然にある時気づけば、

このような世界が始まっていたのではなく、

神が初めに存在をしておられ、

そしてこの神によって世界が始められたのです。

 

この世界の始まりは神であるということです。

 

私たちは人間によって造り出された神ではなく、

人間も含め天地万物を創造された神を信じているのです。

 

人は全てが罪人となってしまったことを信じている

キリスト教を信じる者は第三番目に、

人は全てが罪人となってしまったことを信じています。

 

罪人ということを考える時に、

刑務所にお世話になるような犯罪を犯したとか、

人々に迷惑をかけるような悪いことをしたとか、

そのようにイメージされるのかと思います。

 

私も初めは罪人と言われても、

あまりよくその意味がわかりませんでした。

何故ならばそこまで悪いことをしていたとは、

私自身考えていなかったからです。

 

しかし聖書で言われる罪人の定義とは、

英語で説明するとわかりやすいのですが、

crimeとsinという違いがあるということです。

 

すなわち聖書で言われる罪とは、

sinを意味する言葉であるということです。

 

crimeとは一般的に考えられている罪の概念です。

例えば悪いことをした犯罪を犯したということです。

 

一方でsinとは何かというと、

宗教的な罪という意味で使われる言葉であり、

それを聖書的に解釈をしていくならば、

 

神を神とせず神から背を向けて生きること

 

を意味する内容であるということです。

 

これが聖書の言われる罪人の基本的な意味です。

もっと具体的に言うこともできるのですが、

長くなってしまうのでここまでにしておきます。

 

もし私たちが天地万物を創造された神を神とせず、

神に背を向けて生きているということならば、

それがすなわち罪人であるということです。

 

罪人を救うためにキリストが来られたことを信じている

キリスト教を信じる者は第四番目に、

罪人を救うためにキリストが来られたことを信じています。

 

私たちはイエスキリストというお方が、

神の子であり私たちを罪から救うことのできる、

一真の救い主であることを信じています。

 

罪人となってしまった人間には、

聖書が警告している大切なことがあって、

それは神の裁きを受けなければならないということです。

 

別の言葉で言い表すならば、

神に見捨てられてしまうということです。 

 

先ほど罪とは神を神とせずに、

神に背を向けることであるとありました。

 

別の言い方をすれば、

私たち人間が神を見捨てたということです。

神の存在を否定し神を無視して生きることです。

 

そうであるならば当然その人は、

神からも見捨てられてしまうということです。

それを神の裁きという言葉で表現するのです。

 

しかしこれが聖書の最も重要なメッセージですが、

エスキリストとはそのような罪人となった私たちが、

神の裁きから救われるために来られたお方である、

すなわち神と罪人との和解を成し遂げるために、

この世に来られたお方であということです。

 

もっと言えばイエスキリストという存在が、

罪人である私たちと神との間の仲介者となってくださり、

双方を和解へと導くという働きをしてくださったのです。

 

そのためにキリストが来られたことを、

私たちは信じているということです。

 

キリストの十字架による死と復活が私のためのものであると信じている

キリスト教を信じる者は第五番目、

キリストの十字架による死とその後の復活が、

私のためのものであることを信じています。

 

エスキリストは罪人である私たちと、

神との間を取り持つ仲介者として来られました。

エスキリストが双方の間に立たられることにより、

それを信じ受け入れる人には神との和解が成立します。

 

では具体的にイエスキリストが何をされたのか。

 

それが十字架で死なれることであり、

またその後三日目に復活をされたことです。

 

実はこれがキリスト教の中心であり、

心臓部分であるということです。

 

この部分を信じることがなければ、

私たちの信仰の中身は全くありません。

これさえ信じることができているならば、

私たちは神との和解が成立し、

救われた者として生きることができるのです。

 

キリストを信じる者とは何を信じているのか、

キリストが十字架で死なれ三日目に復活されたこと、

このことを信じているということであり、

これがキリスト教の心臓であるということです。

 

本当ならばこの部分についてそれぞれ詳しく、

ここで説明を行なっていきたいと考えるのですが、

それをするとかなり長くなってしまうために、

この部分は別の記事で詳しく書くことにします。

書きあがったらこちらでもお知らせいたします。

 

とりあえず今日はこれだけを知っていただきたいのです。

 

キリストが十字架で死に三日目に復活をされたことによって、

私たちの罪の問題が解決へと導かれたということであり、

また同時にそれは神との和解が成立されたということです。

 

では残り二つです。

 

キリストを信じる者に永遠のいのちが与えられることを信じている

キリスト教を信じる者は第六番目、

キリストを信じる者に対して、

永遠の命が与えられるということ、

このことを信じているということです。

 

先ほど人は罪人であり、

それゆえに神の裁きを受けなければならない、

神から見捨てられるということを見ました。

 

しかしその罪がイエスキリストにより解決され、

神との和解が成立されるということです。

 

神との和解が成立されたのならば、

これ以上その人は裁きの中にはいません。

裁きからの救いが与えられたということです。

 

これを私たちのわかりやすい言葉で言い表せば、

地獄の裁きから救われて天国へと導かれるという、

驚くべき祝福を受け取ることになるということです。

 

そしてこの天国へ導かれることを、

私たちは永遠のいのちという言葉を用います。

 

一つだけ知ってほしい大切なことは、

私たち人間は永遠に生きる存在として、

神によって創造されているということです。

 

私たちは死んでそれで終わりではありません。

死んだ後も私たちの魂は生きているのです。

死後の世界は存在をしているということです。

 

そしてその死後の世界においては、

二つの世界が存在をしていて、

それが天国と地獄であるということです。

 

死んだ後の私たちの魂は、

この二つのうちのどちらかに行くのです。

 

もし私たちが罪人のままでいるならば、

その人は地獄の裁きを受けなければなりません。

 

しかし罪人という状態から救われて、

神との和解が成立しているのならば、

その人は永遠のいのちを得て生きることになります。

すなわち天国で永遠に幸いな人生を生きるという約束です。

 

私たちキリストを信じる者は、

この世の世界が全てではないことを信じています。

だからもしこの世において苦しいことがあっても、

心には平安がある人生を生きることができるのです。

 

何故ならば永遠のいのちという希望が常にあるからです。

これが終わりではないことを知っているからです。

これがすべてではないことを知っているからです。

 

この部分について本当は、

もっと書きたいことがありますが、

今日はここまでにしたいと思います。

 

さていよいよ最後です。

 

キリストが再び来られることを信じている

キリスト教を信じる者は第七番目に、

エスキリストが再びこの世界に来られる、

このことを信じているということです。

 

エスキリストの再臨という言葉を使います。

 

では簡単にイエスキリストが再臨される時、

この世界には何が起こるのかというと、

この世界の終わりであるということです。

この世界が終わり新しい世界の誕生です。

 

新しい世界とはイエスキリストが王として立つ世界です。

 

すなわちそこにはもはや罪はありません。

罪がありませんからそれに付随して、

 

死もありません。

病もありません。

老いもありません。

孤独もありません。

競争もありません。

憎しみもありません。

恨み妬みもありません。

裁き合いもありません。

病原菌もありません。

戦争や貧困もありません。

 

そこにあるのは完全なる正義であり、

愛と喜びと平安だけが支配する世界です。

 

実は神様が天地創造をされた時に、

このような美しい世界を創造されていました。

 

ところがそれが人間の罪によって、

すなわち神から背を向けることによって、

完全に破壊をされてしまったということです。

 

しかし神様は再びこれを回復されます。

神様が初めに創造された美しい世界の回復です。

 

エスキリストを信じて生きる者は、

その世界において永遠に生きることになるのです。

そこにあるのは真の幸いであります。

 

このような希望が常にあるがゆえに、

今日も平安を持って生きることになります。

 

おわりに

 

私たちにはこの世を生きる限り問題があります。

様々な問題の前で打ちのめされてしまうのです。

 

しかし今日知ってほしい大切なことは、

私たちにとっての本当の問題とは何かということです。

実は目の前に起こっている問題が問題の本質ではなく、

 

神を神とせず神に背を向けて生きる

 

ここに私たちの問題の本質があるのです。

 

これを聖書では罪人と呼んでいるのですが、

この世界に起こっている様々な悲劇は実は、

罪人となってしまった人間に原因があるのです。

 

神様が創造された世界は美しい世界です。

 

しかし人間の罪がそれを破壊し、

問題だらけの世界を造ってしまったのです。

 

ところが神様はこのままで放っておかれません。

再び神様の創造された美しい世界に回復する、

その時を計画しておられるということです。

 

そしてそのために神様は、

エスキリストをこの世界に送られ、

神様の世界を破壊した原因である、

罪の問題の解決されたということです。

 

それが具体的に十字架の死と復活によって、

罪の問題の解決が成し遂げられたのです。

 

かなりの長文となってしまいましたが、

最後まで読んでくださり心より感謝申し上げます。

 

このブログに出会った全ての方々が、

様々な問題の中で格闘中にあっても、

心には平安があり安心感があるという、

真の幸いを得て生きられることを願っています。

 

www.ljpchurch.net

 

www.youtube.com

祈る人だけが体験できる領域がある

今日は聖書に登場するザカリヤという人物から、

祈りということについて学びたいと願います。

 

まず初めにザカリヤについてです。

 

聖書にはこう書かれてあります。

 

ルカによる福音書1章5〜7節

5 ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。

6 ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。

7 エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。

 

ザカリヤとはエリサベツという女性の夫であり、

この夫婦の評判は極めて良いものでありました。

 

二人とも神の御前に正しく生き、

主の全ての戒めと定めとを落ち度なく

踏み行っていたと聖書は教えています。

 

素晴らしく敬虔な信仰者として聖書は語ります。

 

しかしそのような敬虔な信仰者夫婦にも、

一つの大きな乗り越えられない問題がありました。

 

それは二人に子がなかったということです。

しかも二人はもう歳をとっていました。

この世の常識から考えるのならば、

これ以上子を持つ望みはありませんでした。

 

しかしそんな状況にあって、

聖書には驚くべきことを記録しています。

 

ルカによる福音書1章13節

御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。

 

ここで注目することは、

あなたの願いが聞かれたということです。

 

何を知ることができるのでしょうか。

なんとザカリヤ祈っていたということです。

 

何を祈っていましたか?

 

子が与えられることをです。

 

現実を見れば、

常識的に考えるならば、

彼らにはこれ以上子を持つ望みはありません。

 

しかしザカリヤはそれでも信じていました。

 

何を信じていましたか?

 

人にはできなことであっても、

神にはできないことはないということです。

 

そこでザカリヤはその信仰を持って、

諦めずに祈っていたということです。

 

現実がどうであれ、

人々がどう言っているかではなくて、

神にはできないことはないと信じて、

諦めずに祈り続けていたのです。

 

その結果彼らに子が与えられるのです。

 

その子の名をヨハネと名付けます。

後に聖書の中でバプテスマのヨハネとして、

大切な役割を担う人物として記録されています。

 

ここで私たちに与えられるメッセージです。

 

私たちの人生にも様々な問題が起こります。

しかしイエス様を信じ生きる私たちにとっては、

実は問題はもはや問題とはならないということです。

 

何故でしょうか?

 

私たちは問題を通して、

神の偉大なる力を体験することになるからです。

 

問題とは私たちにとってもはや問題ではなく、

問題が起こるからこそ神様への祈りと導かれ、

そしてその祈りの結果神の偉大な働きを体験するという、

驚くべき祝福を体験することになるのです。

 

このことを知った上で、

では私たちの問題とは何であるのか。

 

それは祈らないことです。

 

問題があることが問題なのではなく、

問題の中で祈らないことが問題であり、

祈りへと導かれるならばその結果は必ず、

神の偉大なる働きを見ることになるのです。

 

 

問題が問題となる理由は、

私たちが問題のために祈らないことです。

 

祈りの人は問題が襲ってきても、

これは私たちが神の偉大な働きを体験するために、

必要なものであるということを知っているのです。

 

だから私たちは問題が起こっても祈り、

問題が起こらなくても祈り、

祈りを持って日々を過ごすということです。

 

祈りとはクリスチャンである、

私たちに与えられている大きな特権です。

 

この特権を私たちは大いに用いることです。

用いることができる人だけが体験できる、

神の偉大なる働きがあるということです。

 

 

www.ljpchurch.net

 

www.youtube.com