聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

十分の一の捧げ物について

今日の聖書黙想 20年5月7日

聖書箇所 申命記14章22〜29節

 

ハレルヤ!今日も新しい1日が与えられています。

今日も精一杯主への感謝と賛美にあふれて歩めるように、

主だけを見上げて生きることを願っています。

 

最近ずっと毎日続けている黙想ブログですが、

昨日は残念ながらお休みとなってしまいました。

なぜか昨日の朝はいろいろと忙しくて。

もちろん黙想は行なっているのでありますが、

黙想の内容をブログに書くのに、

ある時は2時間ほどの時間がかかり、

平均で1時間半は必要としています。

昨日はブログを書く時間が捻出できずに、

朝の時間が過ぎ去っていってしまいました。

 

インプットしたものをアウトプットすることが、

私の信仰の成長に大いに役立つものであると信じ、

昨日は一日残念ながら途切れてしまったのですが、

今日からまた新しい心で毎日更新を目指せたらと思います。

 

さて今日の黙想です。

 

今日の黙想 導入部分

今日の聖書から学ぶことは、

十分の一の捧げ物についてです。

 

十分の一とか献金とかの話をすることは、

結構勇気が必要としたりするのですが、

主から示されていることを一つ一つ、

丁寧に書き記せたらと願っています。

 

今日の御言葉は私たち信仰者がおこなう、

献金というものに当てはめることができます。

 

今日の御言葉では1年に一度の十分の一の捧げ物ですが、

私たちクリスチャンは毎週お捧げ物をしています。

一年に一度に一年分の献金をためておくことは、

結構難しいことではないかと思います。

 

いや自分は一年に一度と書いてあるから、

自分はそのようにするということならば、

それはそれで全く問題ないことでしょう。

そのように財政を管理できるのならば、

そうしたら良いのかと思います。

 

でもなるべくならば1週間に一度の方が、

管理もしやすいのではないかと思います。

今週与えられた神様の恵みの中から、

毎週お捧げすることの方がわかりやすいです。

 

しかしその前に今日考えたいことは、

何故献金の捧げ物をしなければならないのか、

どんな目的で献金が捧げられているのか、

それについて考えることができればと願います。

 

献金とはただお金を袋に入れたら良い、

というものではありません。

ポケットにいくら入っていたから、

今日はこれでいいやという思いの中で、

捧げられるべきものでもありません。

 

献金を捧げることと私たちの信仰生活が、

どのようにリンクをしているのかを考えて、

正しい献金をお捧げすることが大切です。

 

今日は御言葉からそのことを学びたいのです。

 

献金を捧げる目的について、

今日は二つのことを学びます。

 

1、主を恐れることを学ぶため

2、レビ人や貧しい者たちを養うため

 

十分の一を捧げる目的について

今日は特に十分の一の意味とか目的について、

御言葉から考えていこうと思います。

 

何故十分の一を捧げることが求められているのか。

 

第一番目に主を恐れることを学ぶためです。

 

申命記14章22〜23節

22 あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。

23 主が御名を住まわせるために選ぶ場所、あなたの神、主の前で、あなたの穀物や新しいぶどう酒や油の十分の一と、それに牛や羊の初子を食べなさい。あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために。

 

ここでは十分の一の教えがなされており、

それをする目的についても教えています。

それは23節の最後に書かれてあるように、

 

あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために。

 

十分の一の捧げ物を確実におこなうことによって、

そこに何が現れることになるかというと、

私は主を恐れる者であるという信仰告白であります。

 

ここで恐れるということは、

恐怖でおののき震えながら生きるのではなく、

尊敬とか、敬うとか、尊ぶとか、崇めるとか、仰ぐとか、

自分にとって特別な存在であることを表す言葉です。

 

イスラエルが十分の一の捧げ物をおこなう事によって、

私たちは神を尊び、敬い、崇め、恐れていますという、

彼らの信仰告白が現れているという事です。

 

すなわち彼らの信仰が十分の一の捧げ物という、

具体的な形を持って現れることを教えるのです。

 

私たちイスラエルは主なる神様あなたを、

心から愛し、慕い、敬い、尊んでいますという、

この信仰告白の上に十分の一の捧げ物という、

具体的な形が現れているということです。

 

故にただ単に捧げれば良いのではなく、

十分の一の捧げ物を行う時はいつも、

主への真実な心を持って捧げるという、

この心の部分が伴っていることが重要であり、

この部分が失われた捧げ物であるならば、

それが十分の一でも十分の二でも十分の三でも、

誰よりも多額の金額を捧げることがあっても、

主はそれを喜んで受け取られないということです。

 

十分の一を含めた献金というものは、

主への真実な信仰告白の上に捧げられるものであり、

金額ではなくその心を主は受け取られるのです。

 

例えば今週10ドルの収入があったならば、

その十分の一を分ければ1ドルになります。

1ドルという金額は決して高い金額ではありません。

しかしそれが少ない数の金額であったとしても、

主への真実な信仰告白の上で捧げられるのならば、

主はそれを喜んで受け取ってくださるということです。

 

またもう一つ言えることは、

十分の一の捧げ物に対して、

主に真実に仕える心で行うならば、

主が天の窓を開いて溢れるばかりに、

祝福を与えてくださるということです。

マラキ書にはこう教えられています。

 

マラキ3章10節

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。―万軍の主は仰せられる―わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

 

主への真実な信仰が、

十分の一の捧げ物を通して現れます。

主はそれを喜んで受け取られるのです。

 

そしてただ主が受けて終わりではありません。

聖書で語られる偉大な約束があります。

それは結局のところ祝福があなたに戻るということです。

 

なんという大盤振る舞いでしょうか。

 

実のことを言えば、

私たちが十分の一を捧げると言っても、

それも主から受けたものであります。

主が受けた一部をお返しするのが十分の一です。

 

しかしご自分のものを返していただいただけにも関わらず、

それを受け取られた主が捧げた人々をさらに祝福すると、

聖書では約束されているのであります。

 

わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、

あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

 

十分の一の捧げ物は、

私たちの主への信仰告白です。

それを主は喜んで受け取ってくださり、

受け取って終わりということではなくて、

さらに捧げた人の経済を祝福するということです。

捧げたのに減っていないという祝福が起こります。

捧げたにも関わらずさらに増えているという奇跡です。

 

まさしく5つのパンと2匹の魚の奇跡が起こるのです。

 

 

十分の一の目的の第二番目です。

それはレビ人や貧しい人々を養うためです。

 

申命記14章27節

あなたの町囲みのうちにいるレビ人をないがしろにしてはならない。彼には、あなたのうちにあって相続地の割り当てがないからである。 

 

申命記14章29節

あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。

 

イスラエルを主への真実な心から、

十分の一を捧げるということならば、

それは具体的にどのように用いられるのか、

ということを今日の聖書から教えられます。

 

それはレビ人たちを養うためであり、

また貧しい人々を養うためであります。

 

レビ人とは何かというと、

主の幕屋で奉仕をするために、

特別に主から選ばれた人々であります。

幕屋での礼拝奉仕をする人々のことです。

 

彼らにだけは相続地が与えられません。

他の部族にはそれぞれ相続地が与えられ、

与えられた相続地の中で畑を耕したり、

牛や羊を飼って生活をしていくのです。

 

しかしレビ人にはそれが許されておらず、

主の幕屋に仕えることだけが許されています。

すなわちレビ人たちは自分たちが生きるために、

畑を耕したり家畜を飼ったりという、

他の部族が許されていることが許されていません。

 

ではレビ人たちはどの様に養われていくのでしょうか。

他の部族が捧げる十分の一の中から養われるのです。

 

他の部族が捧げる十分の一の捧げ物を通して、

その中から自分たちが食べて生活するために、

必要な分け前を受け取っていくということです。

 

27節の御言葉にはとても重要なことが書いてあります。

レビ人をないがしろにしてはならないということです。

 

主の幕屋の奉仕のために仕えている彼らを、

決してないがしろにしてはならないのです。

 

主を見上げて真実に捧げる十分の一の捧げ物が、

レビ人たちを愛し仕えることに繋がるということです。

 

今の私たちの時代に当てはめるならば、

それは教会でフルタイムで仕える働き人です。

 

聖書的な理想を言うならば、

教会の方々がそれぞれ捧げる十分の一を通して、

その教会で仕える働き人が養われていくことです。

 

ただ多くの教会は現実としてそれが厳しい状況です。

 

私も昨年ですが一時期パートの仕事をしました。

それをすると決断したのは私自身であり、

喜んでそれを行なっていたのでありますが、

でもやはり教会の働きとの両立は本当に厳しいです。

 

多くの教会も現実は厳しいものかと思います。

しかしどうか主がそれぞれの教会を恵んでくださり、

ますます世界の福音化のために用いられる教会が、

次々に起こされていくことを願っているのです。

 

また十分の一の捧げ物の目的は、

レビ人だけではなく次の人々を養うためです。

 

あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、

みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。

 

彼らを養うために用いられるものであるということです。

これが教会が社会奉仕を行う理由であります。

 

ただ現実として自分の教会を守るのに必死な状態にある教会が、

外にまで目を向けて奉仕をしていくことは難しい状況です。

 

しかし僅かな小さなことであっても、

教会が社会奉仕に貢献することは、

間違いなく主の願われる重要な部分です。

 

結論 今日のメッセージのまとめ

今日の黙想はかなり長文となってしまいました。

最後までお付き合いくださって感謝いたします。

 

最後に簡単にまとめます。

十分の一とその捧げ物についての目的。

 

1、主を恐れることを学ぶため

2、レビ人やみなしごなどを養うため

 

これら二つのことをしっかりと覚えて、

正しい心で献金ができれば幸いなことです。

それは結局捧げた本人の幸いにつながります。

 

大切なことは心からそれをすることです。

義務的に機械的に行うのに意味はありません。

教会が貧しくて仕方ないからするのでもありません。

 

あくまでも主への真実な信仰告白の現れとして、

十分の一の捧げ物を行なっていくことです。

 

それが結局捧げた人自身の、

祝福に繋がっていくということです。

 

私自身もクリスチャンになって約20年が過ぎました。

この20年間ずっと十分の一を守り続けました。

その金額が大きくても少なくても、

守り続けていくことができました。

 

主はそれを少しは喜んでおられるかな、

そう思う時に私も嬉しくなってくるのです。

 

献金を捧げることが、

クリスチャン生活の喜びとなれば幸いです。

 

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