聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

聖絶は主が怒りをおさめるポイント

今日の聖書黙想 20年5月5日

聖書箇所 申命記13章12〜18節

 

ハレルヤ!今日も新しい1日の始まりです。

今日は珍しく朝一番で家族で散歩に行きました。

外の風はまだ少し冷たく感じましたが、

気持ちの良い時間を過ごせました。

外の陽を浴びるのはやはりいいですね。

心に元気が与えられるようです。

息子も朝から元気いっぱいです。

今日も与えられている1日に感謝しながら、

主の喜ぶ器として生きれたらと願います。

 

 

 

さて今日の黙想に入ります。

 

序論 今日の黙想の導入

今日御言葉から教えられることは、

主の怒りがおさめられるポイントについてです。

それが聖絶にあるということです。

 

まず初めに押さえておくべきことは、

主は怒られるお方であるということです。

 

私たちの信じる主は愛であるお方です。

それは間違いのない真理であります。

しかし同時に主は怒られるお方です。

 

では何に対して怒られるのでしょうか。

それは罪に対して怒られるということです。

 

主は罪を徹底して嫌われます。

罪に対して怒られるお方だということです。

 

そしてやがて罪に対する主の怒りが、

さばきという形を通して現れるのです。

 

聖書が強く語っている大切なことは、

全ての人が罪を犯したということです。

 

この世界で生きる人の中で、

罪人でない人は一人としていないと。

全ての人が罪人であるということです。

義人と呼べる人は一人もいないということです。

 

そうです。

人間は全てが罪人として生きている、

これが聖書で語る重要な真理であり、

私たちがこれを悟ることが必要です。

 

そうであるならば私たちは罪人ゆえに、

全ての人々が神の怒りさばきを受けるべき、

対象者であることを教えているのです。

 

本来ならば罪人であるゆえに、

私も主の怒りの中に置かれていた存在であり、

やがて主のさばきを受けるべき存在でした。

 

しかし現在私はその主の怒りから、

救われた者として生かされているのです。

 

主の持っていた私に対する怒りは、

完全になだめられたということです。

 

ではどうなのでしょうか。

私は全く罪の無い者となったのでしょうか。

主の怒りの原因である罪というものが、

私の中から完全に無くなったのでしょうか。

 

そうではありません。

 

私は現在主の怒りから救われた者、

主のさばきから救われた者であります。

 

しかしそれは私から罪がなくなったから、

だからそこから救われたのではありません。

 

それが可能となった原因があって、

それがイエスキリストであります。

 

神の一人子であるイエスキリストが、

私の持っている、いや私だけではなく、

全世界に生きる全ての人が持っている、

罪の問題を解決してくださったのであります。

 

エスキリストの故に、

私たちは罪の全く無い者として、

すなわち義人と認められた者として、

生きることが許されているということです。

 

エスキリストの故にそれが起こったのです。

だからもしそのイエスキリストを信じるならば、

これ以上主の怒りの中で生きる者ではなく、

怒りの中から救われた者として、

生きることができるようになるということです。

 

私に対する主の怒りがおさめられたポイント、

それがイエスキリストにあるということです。

 

今日はこの事を考えたいのです。

 

聖絶せよとのメッセージ

今日の御言葉では聖絶に対するメッセージが、

イスラエルに対して語られています。

 

イスラエルを神への信仰から惑わす者がいれば、

それらを完全に聖絶するようにという事です。

 

聖絶とは聖書の解説を見れば、

完全に滅ぼし尽くすこととあります。

 

聖絶の命令とは恐ろしい命令です。

 

しかし実はこの聖絶のメッセージは、

イスラエルにとってとても重要でした。

 

何故ならば聖絶をすることによって、

主が燃える怒りをおさめられるからです。

 

申命記13章17節

この聖絶のものは何一つ自分のものにしてはならない。主が燃える怒りをおさめ、あなたにあわれみを施し、あなたをいつくしみ、あなたの先祖たちに誓ったとおり、あなたをふやすためである。

 

初めにも書いたように、

主は罪を徹底して嫌われます。

 

イスラエルがカナンに入ることによって、

彼らの持っている神への信仰を惑わす者が、

必ず現れる事を教えているのでありますが、

彼らが惑わされることが罪であることはもちろん、

それよりも彼らを惑わす者たちがもっと問題であり、

そのような者たちを聖絶するようにと言われるのです。

 

聖絶をすることによって、

主の持っている怒りがおさまるということです。

 

聖絶とは先ほども書いたように、

完全に滅ぼし尽くすことであります。

 

イスラエルの神への信仰を惑わす者たちを、

完全に滅ぼし尽くする事を命じられるのです。

そしてそれをすることがイスラエルの祝福につながり、

またカナンでいつまでも幸せに生きることにつながるのです。

 

今日のメッセージ 私たちの罪の聖絶

今の時代を生きる私たちにも、

聖絶が求められています。

罪との完全な決別であります。

 

しかし残念なお知らせは何かというと、

自力で罪との決別は不可能だということです。

自分の努力とか頑張りによって、

罪を断ち切ることは不可能であるということです。

 

もし今日罪の中で生きることがなかったとしても、

明日も同じように生きれる保証はありません。

 

私たちは礼拝の中で天使であるかのように、

美しく主を礼拝した後にすぐに罪を犯すという、

そんな弱い存在である事を覚えるのです。

 

自力で罪の解決はできません。

 

しかしそれを知っておられる父なる神様が、

ご自分の一人子をこの世界に送り、

私たちの罪の問題を身代わりとなってくださり、

完全な解決へと導いてくださったのです。

 

それがあの十字架の出来事であります。

 

十字架の上でイエスキリストが死なれることにより、

私も含めた全ての人間の持っていた罪の問題が、

完全に解決されたということであります。

罪の聖絶があの十字架上でおこなわれたのです。

 

十字架の上で罪の聖絶をおこなわれたことにより、

主の持っておられた罪に対する怒りはおさまりました。

 

だからもし私たちが十字架で死なれしキリストを、

我が救い主として信じて受け入れるのならば、

その人はもはや主の怒りの中で生きる者ではなく、

怒りの中からさばきの中から救われた者として、

今より永久まで幸いな人生を生きることになるのです。

 

エスキリストの十字架が、

私の罪の問題を解決してくださいました。

私の罪を完全に聖絶してくださいました。

 

故に今日も私たち信じる者は、

罪赦された者として生きることになるのです。

怒りの中から救われた者として生きるのです。

さばきの中で生きる者ではなく、

永遠のいのちを持つ者として生きるのです。

 

このような驚くべき祝福の中で、

私たちが生かされていることを覚え、

今日も感謝と賛美の中で生きることです。

 

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