聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

7年ごとの負債免除の教えから 罪という負債の免除

今日の聖書黙想 20年5月8日

聖書箇所 申命記15章1〜11節

 

序論 黙想の導入部分

今日の御言葉では、

イスラエルの中で定められている、

一つの規定について書かれてあります。

 

それは7年ごとの負債免除という規定です。

第7の年になれば全ての負債が免除される、

貸主はこれ以上借主に対してその負債を、

取り立ててはならないという規定であります。

 

今の時代を生きる私たちにとっては、

信じられないような規定であります。

 

どれだけ大きな負債を負っていても、

7年ごとに全ての負債が免除となるのです。

 

こんな規定があったら、

どれほど素晴らしいかと思います。笑

 

イスラエルの中に貧しい人が無くなる為の規定であり、

互いに助け合って生きることを教える規定であります。

 

持っている人が持っていない人を助けるのです。

持っていない人に具体的な手を差し伸べるのです。

 

私たちが置かれている社会においても、

このような精神で生きることができればと、

持っている人が持っていない人に対して、

無条件で助けの手を差し伸べることであり、

聖書的に言えばそれは持っている人の責務かと、

そう言えるのではないかと思うのです。

 

自分だけが多くを持って喜んで生きる、

欲望の中にまみれて生きるのではなく、

与えられているものを十分に分け与える、

そういう社会となればということです。

 

この部分を明確に理解することになれば、

富を得ることを否定されることにはなりません。

富を得ることによってそれが貧しい人々に流れる、

こういう明確な健全な目標を持って富を得るならば、

それは大いに胸を張って達すべき目標と言えます。

 

富を得ることが悪いかのような風潮もありますが、

それは富を得た人の使い方に問題があるのであって、

富を得ることに対しての悪は全くないということです。

 

正しいことのために用いることができれば、

それは大いに求めても良い目標であります。

 

話はかなり本題と逸れてしまいましたが、

大事な気づきだったので書き記しました。

 

話を戻してとにかくイスラエルの中において、

7年ごとの負債免除という規定があり、

それによって貧しい人々も生きることができる、

そういう恩恵を受けていたということです。

 

今日この内容から私たちが学ぶことです。

それは罪という負債の免除についてです。

7年ごとの負債免除という規定が、

実は今を生きる私たちにも恩恵を与えています。

いわば7年ごとの負債免除の規定は、

ある一つの型であることを教えているのです。

 

今日はそのことについて考えます。

 

7年ごとの負債免除の規定の型とは

まず今日の御言葉を確認してみます。

 

 申命記15章1〜3節

1 七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。

2 その免除のしかたは次のとおりである。貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。主が免除を布告しておられる。

3 外国人からは取り立てることができるが、あなたの兄弟が、あなたに借りているものは免除しなければならない。

 

1節と2節の御言葉では、

7年ごとの負債免除について、

主からの教えが語られています。

 

この負債免除の規定は、

主からの布告であることを教えています。

 

それゆえにそれは必ず、

実行されるべき重要な規定であります。

 

どれだけ多くの負債を抱えていたとしても、

定められた年になれば全てが免除されます。

これ以上負債の故に責められることはなく、

完全なる免除を教えている内容であります。

 

この内容を見たときに、

一つの重要なことに気づかされました。

 

今の時代を生きる私たちにも、

この規定は適用されているということです。

 

私たちにも負債の免除という、

素晴らしい恩恵が与えられていると、

この重要な事実に気付かされたのです。

 

具体的にどういうことでしょうか。

それは罪という負債の免除であります。

 

私たちは本来罪という負債を負っていました。

そしてその負債というのは返しきれないほどの、

大きな大きな負債であったのです。

 

それを返しきるために必要なことは、

神の裁きを受けるのみということでした。

罪の負債を負っている私たちは、

神の裁きを受けることしか、

罪の負債を償う方法はなかったのです。

 

それほど私たちの持っている罪という負債は、

私たちの力では返しきることのできない、

大きな大きな負債であるということです。

 

ところがある時から、

その負債が完全に免除されました。

 

その意味は神の裁きを受けて償うことから、

完全に解放された免除されたということです。

 

罪の負債は免除になったのですから、

もうこれ以上負債の償いを負う必要はないのです。

 

では何が起こったということでしょうか。

何の故に私たちの罪の負債が免除されたのでしょうか。

 

それを実現したのがイエスキリストの十字架です。

 

本当ならばイエスキリストの十字架は、

罪という負債を負っている私たちが受けるべきもの、

罪の負債の故の償いの形があのキリストの十字架です。

 

しかしそれを私たちが受ける代わりとなって、

エスキリストが受けられたということです。

私たちが罪の負債の故に受けるべき神の裁きを、

エスキリストが身代わりとなって受けてくれた、

それがあの十字架で死んだキリストの意味です。

 

エスキリストが私たちを含めた、

全人類の罪の負債を背負ってくださり、

あの十字架の上で死んでくださったのです。

すなわち罪の故の償いを行われたのです。

 

本当は罪の負債を持っているのは私たちです。

だから私たちが受けなければならないものでした。

しかし私たちがそれを受けなくても良いように、

キリストが身代わりに受けてくださったのです。

 

罪の故に神の裁きを受けるべきだったのが、

キリストが身代わりとなって受けられたことにより、

これ以上受ける必要は無くなったということです。

すなわち罪の負債の完全な免除がなされたのです。

それを可能とされたのがキリストの十字架です。

 

もし私たちがこのことを信じるならば、

キリストの十字架の死は実は私の罪の負債のために、

身代わりとなって受けてくださったものであると、

私たちが信じて受け入れることができるならば、

その人は信じたその瞬間に罪の負債免除という、

驚くべき恩恵にあずかることができるのです。

 

神の裁きから救われ罪赦された者として、

永遠に神と共に生きる祝福に預かるのです。

 

またもう一つ注目することは、

3節の御言葉にこうあるのです。

 

異国人からは取り立てても良い。

 

異国人とはイスラエルに属さない人々です。

イスラエルに属さない人々には、

この規定は適用されないということです。

第7の年が来ても免除されることはありません。

イスラエルに属する者だけに適用される規定です。

 

これを私たちに当てはめるのならば、

エスキリストに属する者ということです。

すなわちイエスキリストを信じる者です。

エスキリストを信じ受け入れた者です。

 

その者にはこの規定が適用されるのです。

すなわちイエスキリストの十字架によって、

罪の負債の全てが免除されるという規定です。

 

エスキリストに属さないならば、

自分でその罪の負債を償わなければなりません。

それはすなわち先ほども言ったように、

神の裁きを受けて負債を償うということです。

 

今日のメッセージ 十字架のあがないの完全性

今日の御言葉の規定で一つ注目する点は、

7年ということです。

7という数字についてです。

 

7という数字は完全数を表しています。

7の年が来たらそれは完全に免除されるのです。

僅かだけ免除するということではありません。

何パーセントだけ免除するのではありません。

少しも残らず全てが免除されるということです。

 

エスキリストの十字架のあがない、

それは完全を表すものであります。

 

エスキリストの十字架には、

私たちの罪を完全に免除する力がある、

このぐらいは免除できるのではなくて、

あなたはあまりにも負債が多すぎるから、

少しぐらいは自分で解決しなさいではなく、

どれだけ大きな負債を持っている人でも、

キリストの十字架によって完全に免除される、

罪の問題は完全に解決されることを教えるのです。

 

ゆえにイエス様を信じ受け入れた者は、

今日も救われた者として赦された者として、

安心して生きても良いということです。

 

自分はまだ赦されていないのではないか、

自分はまだ救われていないのではないか、

そう考えて心配して生きる必要はないのです。

 

それはキリストの十字架の完全性を疑うことです。

 

今から約2000年前にたった一度なされた、

あのキリストの十字架のあがないは、

あれだけで完全完璧であるということです。

キリストの十字架のあがない以外にも、

何かを必要とすることにはならないのです。

あれだけで完全であり完璧であります。

 

だからこそ私たちは今日も1日、

神の素晴らしい恩恵を受けた者として、

神に感謝して賛美して生きることであります。

神の喜ぶことが何であるのかを熱心に考えて、

そこに生きていくことであります。

 

それがすなわち神の恩恵を受けた者としての、

当然の応答であるということです。

 

罪の負債の免除という偉大な恩恵を受けた私たちは、

その恩恵に応えるべく相応しい歩みへと導かれるように。

 

まだイエスキリストに属していない方々のために、

この神の恩恵を伝え続けることができますように。

 

今日も1日キリストの十字架を見上げつつ。

 

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