聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

困難にあっても道を開き続ける力 聖書の御言葉

今日の聖書黙想 20年4月30日

聖書箇所 申命記11章22〜32節

 

新しい1日が始まりました。

今日も外は雨降りの1日となりそうです。

昨日も1日雨で明日も雨の予報。

 

自粛生活が続いている中、

少しの時間でも裏庭へ出て過ごす時間が、

尊い大切な時間になるのですが、

ここ最近の雨続きでそれもできません。

天気の悪い日が続くと心まで暗くなりそうです。

 

1日1日また瞬間瞬間、

あらゆる状況にあって主を見上げること、

このことの訓練だなと思わされています。

 

主を見上げれば感謝と喜びが与えられる、

信じて今日も主にすがり歩めたらと願います。

 

 

さて今日の黙想に入ります。

 

今日の黙想のポイント

今日の御言葉が教えてくれている大切な事は、

困難と思える状況に置かれたとしても、

常に道を開き続けていくための力となるもの、

立ち止まる事なく、後退してしまう事なく、

前進し続けるための力となるものがある。

 

その力が聖書の御言葉にあり、

神ご自身の語られた御言葉であるという事です。

 

神の御言葉である聖書の御言葉により生きる時、

私たちはあらゆる困難をも乗り越え、

常に前進して生きていく事ができるという事です。

 

現在私たちはコロナの問題によって、

全ての活動がストップされているような、

そんな状況に置かれているのであります。

 

しかしこの時をも私たちは益と変えることです。

 

ある意味強制的に全ての活動が停止されている中で、

今まであまり考えることなく継続されていたことなど、

それら一つ一つが神様の御言葉の上に立つ活動であったか、

 

もしかしたら私たちはこの様な状況にならなければ、

なんの疑いや疑問を持つこともなく、

活動を行い続けていたのかもしれません。

 

強制的に活動が停止されているこの時こそ、

再び私たちが聖書の御言葉に立つ者として、

その働きを行う事ができていたのかどうか、

それをしっかりと確認する必要があると思います。

今はそれを考える時であるのかと思わされます。

 

カナンに入る前にイスラエルを立ち止まらせる

今日の御言葉を見れば、

カナンの地を前にするイスラエルに対して、

とても重要なことを神様がモーセを通して語ります。

 

それは彼らのこれからの歩みが、

祝福となるのか呪いとなるのか、

それを決定する基準についてです。

その基準はとてもシンプルな基準でした。

 

申命記11章26〜28節

26 見よ。私は、きょう、あなたがたの前に、祝福とのろいを置く。
27 もし、私が、きょう、あなたがたに命じる、あなたがたの神、主の命令に聞き従うなら、祝福を、
28 もし、あなたがたの神、主の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。

 

ここからわかる明確な基準とは、

神様の語られる御言葉に聞き従うのかどうか、

ただこれだけの基準であるということです。

 

これからカナンの地に入るイスラエルに対して、

カナンの地に入ってから祝福を受けて生きるのか、

それとも呪われた民となって生きることになるのか、

それを決定するのは神様の語られる御言葉に対して、

どういう態度を持って生きるのかによって決定されると、

神様がモーセを通してイスラエルに語るのです。

 

これが神様の御言葉を聞くことの大切さです。

 

もしイスラエルに神様の御言葉を聞く機会が無く、

そのままカナンの地に入っていくということならば、

イスラエルはカナンの地で敗北者となっていたでしょう。

 

何故ならばカナンの地を得るためには、

その地にすでに住んでいるカナンの先住民と、

戦いを行いその地を勝ち取らなければなりません。

 

しかしイスラエルの現状を見れば、

どう考えてもカナンにいる先住民に打ち勝って、

その地を得ることができるとは考えられません。

 

それほどカナンにいる先住民は力も強そうで、

町々に建てられている城壁も高くそびえたち、

小さなイナゴの様な集団であるイスラエルが、

その地を勝ち取っていくことは不可能と思えます。

 

しかし神様はカナンを前にしたイスラエルに対して、

一度その場所に立ち止まらせるということです。

そのままカナンの地に前進させるのではなく、

カナンの地に入る前に一度立ち止まらせるのです。

そして神様からの御言葉を聞く時間を与えるのです。

 

その内容とは、

イスラエルがカナンの地においても、

祝福の民として生きることができるのか、

呪われた民として生きることになってしまうのか、

それを決定する基準となるとても大切な内容でした。

 

これを聞くのか聞かないのかによって、

これからのイスラエルの将来に決定的な違いを与えます。

 

この内容を聞かずにただ勢いだけで前進をすれば、

イスラエルは間違いなく敗北の民となっていたでしょう。

しかしこの内容を聞きその基準を知って生きる時、

彼らはカナンで大いなる勝利を得て生きることになるのです。

 

これからのイスラエルの将来を左右する、

とても貴重な時間が与えられたという事です。

 

結論 神様の御言葉を聞くために立ち止まる

私たちの人生の祝福を決定するのは、

いつもシンプルであることを覚えることです。

 

それは神様の語られる御言葉に対して、

どの様な態度で生きるのかということです。

 

神様の語られる御言葉に従って生きるならば、

その人の人生には間違いなく祝福が訪れます。

神様の御言葉に従った上での働きであるならば、

そこには感謝があり喜びがあり平安があります。

 

もちろんそこに戦いがないことではありません。

 

イスラエルもカナンの地を得るためには、

彼らは実際先住民と戦っていくことです。

 

私たちも神様の御言葉に従って生きる中で、

多くの戦いが伴うということが起こるのです。

 

しかし神様の御言葉に従って生きるならば、

私たちの行う全ての働きは祝福されます。

勝利の働きへと導かれるということです。

 

どんな困難な状況に置かれようとも、

祝福の道は開かれ続けるということです。

 

大切なことは神様の御言葉に従っているかどうか、

それを知るためには立ち止まることが必要です。

 

神様の御言葉を聞くために立ち止まることです。

 

働きを無理矢理に続けていくことではなく、

意地でも活動を続けていくことではなく、

今はゆっくりと立ち止まる時間、

神の御言葉を聞く時間であるということです。

 

そして今までおこなって一つ一つの活動に対して、

いやそれよりももっと大切なことは、

私自身の今までの信仰者としての歩みに対して、

御言葉の上に立っているものであったどうか、

これをしっかりと確認する時間であるということです。

 

コロナの問題によって、

全ての活動が停止されている中にあって、

私たちはこの時期にも意味があるということ、

神様のくださっている時間であるということ、

このことをしっかりと受け止めることです。

 

そして神様の御言葉の前にへりくだって、

自分の信仰を確認することがとても重要であり、

ここをしっかりと通ることによって、

アフターコロナにおける全ての活動が、

またそれぞれの信仰者としての歩みが、

大いに祝福された歩みとなると信じるのです。

 

エス様もあるときこう言われました。

 

ルカ10章41〜42節

41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 

エス様が来られたことによって、

主の足元に座って御言葉を聞き続けていたマリヤ、

かたやおもてなしのために色々と気を使い、

忙しく家中を走り回っていたマルタ、

 

どちらも重要で尊いことです。

 

しかしイエス様はここでマルタに対して、

あえてこう言われたのです。

 

 

どうしても必要なことはわずかです。

いや、一つだけです。

 

 

私たちが立ち止まって聖書の御言葉に聞くことが、

困難にあっても道を開き続ける力となるのです。

 

ゆえに私に与えられている、

この毎朝の聖書黙想の時間が、

どれほど尊い時間かを思わされます。

 

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