聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

御言葉を中心として生きる今日は永遠へと繋がる

今日の聖書黙想 20年4月29日

聖書箇所 申命記11章13〜21節

 

神様がイスラエルに対して、

いつも願っていた事とは何か。

 

それは彼らがいつも満ち足りて生きる事であり、

彼らの子孫に至るまで幸いな日々を生きる事です。

 

神様の持っているイスラエルに対する願い、

それはこのただ一つのことに尽きるのです。

 

幸せであるように。

 

そして神様は彼らがいつまでも幸せで、

満ち足りた日々を生きていく事のために、

御言葉を与えられたという事です。

 

神様によって与えられた御言葉、

これに聞き従って生きる事ができるならば、

イスラエルは永遠に繋がる幸せを持つ事になるのです。

 

今日の聖書黙想のタイトルは、

御言葉を中心として生きる今日は永遠へと繋がる

というタイトルにしました。

 

実はこのタイトルは、

私が聖書黙想でいつも用いている、

リビングライフという黙想雑誌の中にあった、

一文に少し変化を加えたものであります。

 

興味のある方は、

リビングライフのサイトも確信してみてください。

様々な牧師先生たちが各視点から御言葉の黙想を語っています。

 

japan.cgntv.net

 

 

今日の聖書黙想から教えられた事は、

今日という日を御言葉中心として生きる事であり、

そしてその生き方が永遠の幸いへと繋がるという事です。

 

永遠に繋がる幸いのために、

今日という与えられている1日の中で、

確実に御言葉に聞き従って生きる事を教えられるのです。

 

今日の聖書箇所の一部を確認しましょう。

 

 

申命記11章18〜20

18 あなたがたは、私のことばを心とたましいに刻みつけ、それをしるしとして手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。
19 それをあなたがたの子どもたちに教えなさい。あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、それを唱えるように。
20 これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。

 

 

イスラエルの民たちに対して語られている事は、

彼らの生活の中心にいつも御言葉があるように、

御言葉を中心に生活をするようにという事です。

 

御言葉がいつも彼らの生活の中にあふれているように、

それが結局イスラエルを永遠に生かすことになるのです。

 

 

申命記11章21節

それは、主があなたがたの先祖たちに、与えると誓われた地で、あなたがたの日数と、あなたがたの子孫の日数が、天が地をおおう日数のように長くなるためである。

 

 

天が地をおおう日数のように長くなるとは、

天と地が続く限りという事を教えています。

すなわちそれは永遠に続く幸いについてです。

 

神様がいつも私たちに対しても願われている事、

それは永遠に続く幸いを与える事であるという事、

この事を私たちは忘れてはならないのであります。

 

一時的に少しばかり得られる幸いではなくて、

永遠に続く幸いを与える事を願っているのです。

 

その為には私たちが今日も、

神様の御言葉を中心として生きる事です。

神様の御言葉と一つとなって生きる事です。

神様の御言葉が私を通して現れる人生、

それを目指して今日も生きていく事です。

 

それが結局永遠の幸いに繋がると教えるのです。

 

でも現実として神様の御言葉を中心として、

それに従って生きていくという生き方は、

この世を生きる私たちにとっては、

決して簡単なことではない事を知っています。

 

エス様も言われていることがあります。

 

 

マタイ16章24

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

 

 

エス様に付いて行くという事は、

すなわち御言葉に付いて行くという事です。

そしてその御言葉に付いて行く生き方とは、

自分を捨て、自分の十字架を背負う生き方であると。

それは決して簡単な話ではないという事です。

 

例えばイスラエルの民はこれから、

カナンという地に入っていきます。

カナンという地において、

神様に選ばれた祝福の民として生きるのです。

 

しかし彼らにとってカナンの地の中で、

神様に選ばれた祝福の民として生きることは、

決して簡単なことではなかったということです。

 

何故ならばカナンの地とはすでに、

罪が満ち溢れている地であったからです。

 

カナンの地には神様が忌み嫌われる、

罪が満ち溢れていたという事です。

 

イスラエルがカナンの地に入るということは、

罪に満ち溢れている地に入るという事です。

 

そこら中で罪が溢れている状況の中で、

神様に選ばれた祝福の民として生きる事、

すなわち罪の誘惑に影響されず、

それらの誘惑を確実に断ち切って生きる事、

これは決して簡単な事ではないという事です。

 

例えば子供達に関して言うならば、

学校にいる周りのお友達がみんなやっている事を、

自分は神を信じる者だからと言って拒否することは、

大きな勇気と決断を必要する事であると思うのです。

 

それをすることによって、

笑われたり、馬鹿にされたり、

仲間外れにされたりという事が起こるでしょう。

 

それらすべてを振り切って、

神の御言葉を中心として生きることは、

決して簡単な事ではないという事です。

 

でももう一度今日私たちが考えるべきことは、

神様が与えたいと願われる幸いとは、

それは永遠に続く幸いであるということです。

 

ある一定の期間だけある、

一時的な幸いではなくて、

 

永遠に繋がる幸いを与える事を、

神様は願っているという事です。

 

だから私たちも今日もう一度、

永遠に目を向けて生きる事です。

 

今この世にある一時的な幸いに、

目を留めて生きる生き方ではなくて、

永遠に繋がる幸いがある事を覚えて、

今日という日を生きていく事です。

 

もしかしたら今日御言葉に生きることによって、

人々から馬鹿にされたり、笑われたり、

敗北感を味わったり、不利益を被ったり、

苦しみ悲しみを味わう事があるかもしれません。

 

しかし今日御言葉を中心として生きる人は、

悲しみは悲しみのままで終わらない事を知っています。

苦しみは苦しみのままで終わらない事を知っています。

 

エスキリストが十字架で死なれた後には、

死からのよみがえりという事が起こったように、

 

私たちの人生にも、

その様な祝福が準備されているのです。

 

苦しみが幸いに変わる時、

悲しみが喜びに変わる時、

敗北が勝利に変わる時、

 

神を信じる私たちには準備されているのです。

 

与えられている今日という1日の中で、

私たちが御言葉を中心として生きる事、

それが永遠の幸いへと繋がっていくのです。

 

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