聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

行いよりも先にあるべきもの 神様との親密な関係

今日の聖書黙想 20年4月27日

聖書箇所 申命記10章12〜22節

 

今日の聖書箇所の中から、

特に心に留まった御言葉はこちらです。

 

 

申命記10章16

あなたがたは、心の包皮を切り捨てなさい。

もううなじのこわいものであってはならない。

 

 

今日教えらえる重要なポイントは、

心の割礼を受けるという事です。

 

イスラエルの民はアブラハムの時代から、

ずっと大切に守られてきた慣習がありました。

 

それが割礼です。

 

割礼とは男性の生殖器の皮を切り取る事であり、

それによって神と契約が結ばれている、

特別な民である事を現すものであります。

 

そしてこれは人間側から出た発想ではなく、

神様から命じられた事でありました。

 

割礼を受けることによって、

神と契約が結ばれた民である事を、

証明するという事です。

 

イスラエルの民はアブラハムの時代からずっと、

この割礼を受けるという事を大切にしていました。

 

イスラエルとして生まれた男子は全員、

生まれたから八日目に割礼を受けたのです。

 

これによって自分はイスラエルである事の証明となり、

その意味は神と契約が結ばれた民である事の証明となるのです。

 

ここで一つ重要なポイントがあって、

神との契約が結ばれた者として、

割礼を受ける事が重要であるという事です。

 

割礼を受けたから契約の民とされるのではなく、

割礼が先にあって契約があるのではなく、

神との契約があって割礼があるという事です。

まず先に神と人との契約を交わす事が大事であり、

この部分がなければ割礼だけを受けたという事に対して、

なんの意味ももたらさないという事です。

 

ところが問題が何かというと、

多くのイスラエルは割礼を受ける事を大切にし、

割礼を受ける本質の部分である神との契約において、

疎かなものとなっていたという事です。

 

少しわかりにくいかもしれないので、

一つ聖書を読みたいと思います。

 

 

創世記17章1

アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。

 

 

この御言葉はアブラハムが割礼を受ける直前に、

神様から語られた御言葉であります。

この御言葉が語られてからその後に、

割礼を受けなさいという御言葉が語られるのです。

 

神様がアブラハムに願われた事があって、

それは彼が神の前を歩む事であり、

全き者として生きる事でありました。

 

その様にアブラハムが生きるならば、

神様がアブラハムに与えると約束していた事があって、

それがあなたの子孫がおびただしく増やす事であり、

また土地を与える祝福を約束されていたという事です。

 

しかしその前に重要なことは、

アブラハムが神の前を歩む事であり、

全き者として生きる事でありました。

 

そうすれば神様の約束が、

彼とその子孫に成就されるという事です。

 

この二つのことが語られた後に、

神様は契約のしるしとして、

アブラハムに割礼を受けさせるのです。

 

いわば割礼とは契約のしるしであり、

割礼があって契約が結ばれたのではなくて、

契約が先にあってそのしるしとして割礼があるのです。

 

ところが問題が何かというと、

契約という部分をイスラエルは疎かにし、

割礼さえ受けていれば良いと考えるのです。

 

すなわち主の前を歩むという部分、

全き者であるという部分が疎かになっていると、

この部分こそ実は最も大切な部分にも関わらずに、

彼らは割礼を受けているという事だけを重要に考え、

最も大切な契約という部分を無視して生きるという事です。

 

今日の申命記の御言葉に戻って、

神様がイスラエルに願われることがあり、

それが心の割礼を受けるようにという事です。

 

間違いなくイスラエルは肉の割礼を受けています。

しかし神様はそれを重要に考えられるのではなく、

心に割礼を受けているのかどうかを重要にされるのです。

 

その意味はイスラエルが主の御前を歩み、

全き者として生きることができているかどうか、

それを神様が問われているということです。

 

 

神様が私たちに願われること、

それは神様と私との一対一の親密な関係です。

 

私たち自身がいつも常に、

神様の前を歩く者として生きること、

全き者として生きることが問われているのです。

 

洗礼を受けること重要です。

奉仕をし献金を捧げ隣人を助け、

どれも重要な行いであります。

 

しかしそれ以前に私たちが問われることがあって、

神様との一対一の親密な関係の中で、

私たちが歩むことができているのかという事です。

 

目に見える行いが大切である以前に、

目に見えない神様との心と心の交わりについて、

それこそ本質的な部分であることを教えているのです。

 

まず先に神様との交わりがあって、

その交わりの中から様々な行いが生まれてくる事です。

 

クリスチャンとして行いはとても重要ですが、

しかし行いだけが強調されてしまうならば、

宗教的なクリスチャンとなってしまうのです。

 

私たちは宗教家になるために、

クリスチャンとして生きているのではありません。

 

クリスチャンとして生きるとは、

神様との関係を表しているという事です。

 

神様と一対一の親密な関係の中で生きる事、

ここにクリスチャンとしての本質があり、

今日の御言葉でいうところの、

心の割礼を受けた者とという事になるのです。

 

そこから派生される行いが重要であって、

故にクリスチャンにいつも問われている事は、

今日も神様との親密な関係があるかという事です。

 

今日も私たちがどんな行いをするかよりも、

まず先に神様との交わりを重要とする事です。

神様の御言葉を聞き祈ることから始めるのです。

 

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