聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

主のあわれみが注がれますように

今日の聖書黙想 20年4月25日

聖書箇所 申命記9章22〜29節

 

今日の聖書箇所は、

主に逆らい続けたイスラエルについて、

モーセがとりなし祈る場面です。

 

22節から24節の御言葉を見れば、

不信仰の中で生きるイスラエルについて、

繰り返してそれが起こった事を記しています。

 

その様な反逆を繰り返すイスラエルを見て、

モーセは40日40夜主の前にひれ伏したという事です。

 

申命記9章25

それで、私は、その四十日四十夜、主の前にひれ伏していた。それは主があなたがたを根絶やしにすると言われたからである。

 

主に逆らい続けるイスラエルに対して、

彼らを根絶やしにすると主が言われました。

 

それを恐れたモーセが、

主のあわれみを求めて祈り始めるのです。

彼の具体的な祈りの内容が、

26節から29節まで記されてあります。

 

とにかくモーセは必死で、

主のあわれみを慕い求めるのです。

 

その結果モーセの祈りのゆえに、

ひと時だけは主のあわれみが注がれます。

しかし罪を繰り返して犯すイスラエルはやがて、

出エジプトをした第一世代の全員が、

荒野で亡くなってしまうことになります。

その意味は約束の地である、

カナンに入る事が許されなかったのです。

 

今日はこの御言葉から民たちの危機の前で、

必死に主に赦しを祈り求めるモーセの姿から学びます。

 

現在コロナの問題によって、

多くの危機的な状況にある中で、

モーセのようにとりなしの祈りを捧げる、

一人の人が必要である事を思わされるのです。

 

今までは自力で生きる事ができる時代でした。

しかしコロナ後にはどうなってしまうのか、

今まで通りに生きる事が許されるかどうか、

全く予想だにできない状況に置かれています。

 

主の恵みとあわれみを必要とする時代です。

 

今までは今日も生きている事が、

ある意味当たり前のように考えていました。

 

しかし今は今日も目を覚まし健康に生きられる事が、

当たり前のことではないと気付かされます。

 

今日は元気に過ごす事ができても、

明日どうなってしまうかもわからない、

そんな状況に現在私たちは置かれているのです。

 

神様の恵みとあわれみなしには、

私たちは1日たりとも生きることのできない、

そんな存在である事を覚えるのです。

 

故に今日も生かされているならば、

私たちは感謝を持って主の前にひれ伏し、

世界で起きている危機のためにとりなしたいのです。

主のあわれみが今日も注がれる事を祈りたいのです。

 

どうか主が私の小さな祈りに心を留めてくださり、

この地に平和と恵みを注いてくださいますように。

 

www.ljpchurch.net

 

www.youtube.com