聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

アフターコロナ時代でも心配はない 主が養ってくださる

今日の聖書黙想 20年5月14日

聖書箇所 申命記18章1〜14節

 

序論 今日の黙想の導入

今日の黙想の結論を先に言えば、

心配する必要はないということです。

心配する必要はない理由としては、

それは主が私たちを養ってくださるからです。

主が私たちをこれからも守り続けてくれるからです。

 

昨今の私たちはコロナ禍によって、

様々な不安や悩みに襲われています。

 

コロナに感染してしまうのではという不安、

それだけではなくアフターコロナにおいて、

私たちは今までのように生活できるのだろうか、

経済的な不安、ビジネスに対する不安、

子供の成長に関する不安や健康の不安など、

実に様々な不安に苛まれる時代を生きています。

 

私は現在アメリカの地、

ニュージャージーとニューヨークにおいて、

日本語の教会の牧師をしています。

 

もちろん現在は教会の集まりも中止しており、

オンライン礼拝という形をとっています。

 

今後この問題がさらに長引くことになると、

教会としてどうしていけば良いのだろうか、

考えるべきではないことまで考えてしまったり、

その中で時には落ち込みもどかしさや苛立ちで、

打ちひしがれる時もあるのが現状です。

 

一つ自分の中で心に留めていることは、

コロナ以前と同じような姿に戻ることは、

不可能かもしれないという考えであります。

 

そうであるならば、

今後教会はこの流れにどう対応すれば良いのか、

このことに対する思いが頭から離れない状況です。

今まででは考えることもなかったことを、

考える機会が与えられているということです。

 

もしかしたら必要のない考えかもしれません。

いやあの頃朝も昼も思いめぐらしていた内容は、

全く必要のない考えであったと言える日がくれば、

それは本当に素晴らしいことであると思うのです。

 

しかし自分の中で今の段階では、

このように様々なことを足りない頭を振り絞って、

色々と考える時間は必要な時間であると信じています。

 

今まででは思いもつかなったような導きを、

もしかしたら神様が示してくれるかもしれません。

 

だから同時に楽しみでありつつも、

やはり心配や悩みというものは尽きません。

 

ゆえに今日の聖書で語られている内容は、

今の私に大きな励ましと希望をくれるのです。

 

今日はその内容について考えます。

 

レビ部族に与えられているゆずりの地

今日の御言葉ではレビ部族に与えられている、

ゆずりの地とはどのような地であるのか、

それを教えている内容であります。

 

初めにレビ部族とはどういう存在かというと、

神様への礼拝の奉仕のために仕える人々のことです。

神様への礼拝の奉仕に仕える専門家であると言えます。

それ以外の仕事をレビ部族の人はは持てません。

ただひたすらずっと神様への礼拝に仕える人々です。

 

そして最も特徴的なことを言えば、

レビ部族には目に見えるゆずりの地が無いことです。

彼らだけには目に見えるゆずりの地が与えられていません。

 

他の部族にはそれぞれ割り当て地が与えられています。

自分たちの部族が安心して暮らせるゆずりの地です。

 

しかしレビ部族にはそれが許されていません。

 

今日の聖書ではそんなレビ部族にこう言われています。

 

 申命記18章1〜2節

1 レビ人の祭司たち、レビ部族全部は、イスラエルといっしょに、相続地の割り当てを受けてはならない。彼らは主への火によるささげ物を、自分への割り当て分として、食べていかなければならない。

2 彼らは、その兄弟たちの部族の中で相続地を持ってはならない。主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である。

 

他の部族にはそれぞれ割り当て地が与えられていて、

彼らはその割り当ての地で安心して生活できます。

その中で畑を耕したり家畜を飼育したりして、

自分たちの生活を成り立たせていくということです。

 

しかしレビ部族だけにはそれが許されていません。

他の部族のように割り当て地が与えられておらず、

その意味は畑を耕すこともできません。

家畜を飼育することもできません。

言い換えれば生活を成り立たせることはできません。

安定的な収入を得ていくことができないということです。

 

レビ部族に求められていることは、

他の部族と同じように割り当て地を持って、

安定的な収入を得て生活することではなく、

それらを捨てて、

ただ神様への礼拝に仕えることのために、

自分たちの人生を捧げなければならないことです。

 

他の部族のように彼らには、

割り当て地が与えられないのです。

 

では彼らは具体的にどのように生きていくことなのか、

どのように生活を成り立たせていくということなのか、

 

今日の御言葉の2節の最後にこうあります。

 

 

主が約束されたとおり、主ご自身が、彼らの相続地である。

 

 

主ご自身が彼らの相続地であると。

 

その意味は主ご自身が彼らを養うということです。

主ご自身がレビ部族の生活を守るということです。

 

彼らには畑を耕すことも家畜を飼育することも、

他の部族ができることは許されていないのです。

その意味は自給自足ができないということです。

 

ではどのように彼らは生きていくのですか。

 

主ご自身が彼らを養うと言うのです。

 

彼らは自分たちが生きていくために働きません。

ただ彼らは主だけを見上げて主のために働きます。

その結果は主ご自身が責任を持って彼らを養うと、

そう約束されているという偉大な約束であります。

 

アフターコロナ時代でも心配はない

では今の時代のレビ部族とは誰でしょうか。

エスキリストを信じる全ての人のことです。

 

エスキリストを信じる全ての人が、

レビ部族に所属する者と言えます。

 

言葉は違いますが聖書を見れば、

私たちは全てが祭司であると教えます。

 

祭司とは神と人々の間に立って、

人々が神に仕えるようになるために、

その間に立って奉仕をする人々です。

 

もちろんこれは第一義的には、

教会で仕えるフルタイムの働き人でしょう。

 

しかしこう考えます。

アフターコロナの時代においては、

全ての人が祭司としてレビ部族として、

仕えていかなければならない時代となると。

 

牧師とか伝道師とか宣教師とか、

そういう人だけではなくて、

キリストを信じて生きる全ての人が、

置かれているそれぞれの場所で、

具体的には職場において学校において、

家庭の中においてそれぞれの置かれる場所で、

神とそこにいる人々の間に立つ祭司として、

仕えていかなければならないということです。

 

仕事をしながら神と人々との間に立つのです。

勉強をしながら神と人々の間に立つのです。

家庭にいながら神と家族の間に立つのです。

様々な場所で神と人々の間に立つ者として、

私たち自身が積極的に仕えていくことです。

 

クリスチャンとして生きるとは、

実はこういうことであるのです。

 

神と人々の間に立つ祭司として、

レビ部族に所属する者として、

私たちは今日も生きているのです。

 

そのような意識を常に持ちながら、

職場に通い、学校に通い、家庭に置かれ、

それぞれの場所でそのように生きることです。

 

そしてそのような人として生きるならば、

聖書はこのような偉大なことを約束されるのです。

 

わたしがあなたのゆずりの地であると。

わたしがあなたたの相続地であり、

わたしがあなたの割り当て地であると。

 

その意味は主ご自身が、

あなたを責任を持って養うという、

偉大なる約束が語られているのです。

 

だからアフターコロナ時代を生きる、

クリスチャンとして生きる私たちが心に留めること、

それは大きく分けて二つのことであると考えます。

 

一つ目には私たちがどこにいても、

祭司としてレビ部族として生きること。

 

またもう一つのことは、

そのように生きる私たちのことを、

主が責任を持って養ってくれるということ。

 

結論はアフターコロナ時代にあっても、

私たちは何も心配する必要はないということです。

 

今日も私たちが願うことは、

祭司としてレビ部族として生きることです。

神と人々の間に立つ者として仕える生き方です。

 

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