聖書のすすめ 日々の黙想ブログ

アメリカのニュージャージーとニューヨークにある日本語教会の牧師から

罪に負けない力 感謝の心

今日の聖書黙想 20年5月12日

聖書箇所 申命記17章1〜13節

 

序論 今日の黙想の導入

今日は罪に負けない力について、

御言葉から考えようと思います。

 

罪に負けないようにというテーマは、

信仰者としての共通のテーマだと思います。

 

しかしながら肉を持っている私たちは、

しばしば罪の誘惑に負けてしまいます。

 

頭の中では罪であるとわかっています。

願わくは罪に負けないようにということです。

しかし気づけば罪の中で生きてしまうという、

罪を前にして人間とは実に弱い存在であります。

 

多くの信仰者が信仰者としの理想の歩みと、

現実の歩みとのギャップに苦しむということです。

 

私はクリスチャンになりたての頃こう思っていました。

牧師とか伝道師とかそういう人々というのは、

罪というものとは一切関係のない者として、

この世を生きる人なのだろうということです。

 

ところが私は現在牧師という立場で生きていますが、

決してそんなことはないということです。

 

牧師だから罪がないのか、

罪とは関係の無い者として生きるのか、

絶対にそんなことにはならないのです。

 

牧師も人間であり、

その意味は罪人であることを、

いつも実感させられるのです。

 

そこで今日の御言葉から学びたいことは、

罪に負けないためにどうすべきかということです。

もちろん完全に罪に負けない者となることはないでしょう。

 

時には負けて時には勝つということの繰り返しです。

 

しかし負ける頻度を少しずつ減らすこと、

罪に勝つ頻度を負ける頻度よりも多くすること、

これについて聖書から学ぶことは大切なことです。

 

今日はこのことについて考えたいと願います。

 

罪人に対する厳しい処罰

今日の御言葉では、

罪を犯した人々に対して、

特に偶像を拝む人々に対して、

厳しい処罰が言い渡されています。

 

申命記17章2〜5節

2 あなたの神、主があなたに与えようとしておられる町囲みのどれでも、その中で、男であれ、女であれ、あなたの神、主の目の前に悪を行い、主の契約を破り、

3 行ってほかの神々に仕え、また、日や月や天の万象など、私が命じもしなかったものを拝む者があり、

4 それがあなたに告げられて、あなたが聞いたなら、あなたはよく調査しなさい。もし、そのことが事実で、確かであり、この忌みきらうべきことがイスラエルのうちに行われたのなら、

5 あなたは、この悪事を行った男または女を町の広場に連れ出し、男でも女でも、彼らを石で打ちなさい。彼らは死ななければならない。

 

ここで言われている重要なポイントは、

ほかの神々に仕える者が確認されるならば、

それが男であっても女であっても、

死刑にしなければならないということです。

 

これが偶像の神々を拝む者に対する、

神様から受ける厳しい処罰であります。

 

この内容を見て誰もが厳しいと感じます。

厳しすぎるのではないかと思うのです。

なにも殺さなくてもと考えるのです。

 

しかし神様にとってはそれは、

決して受け入れられるべきものではないのです。

そのまま放置をしておくべきものではないのです。

 

何故ならば罪を嫌っていることはもちろん、

その罪がイスラエルという共同体の中に、

蔓延をしてしまっては困るからであります。

 

罪の特徴の一つとしては、

蔓延力が強いということです。

 

現在世界はコロナの問題の中にありますが、

コロナの問題の大きな部分の一つは何か、

それは感染力が強いということです。

爆発的な感染を起こしてしまうことです。

 

人間の持っている罪も同じであり、

周りに悪い影響を与えてしまうものであり、

故にそれを完全に滅ぼさなければならないのです。

 

そうです。

私たちが忘れてはならないことは、

罪を犯せば裁きを受けるということです。

しかもその裁きは本当に恐ろしいものです。

 

イスラエルも当然このことを理解しています。

偶像の神々を拝んで仕えてしまうということは、

その結果どうなってしまうのかを知っています。

その結果は裁きであることをよくわかっているのです。

 

でも残念な現実として、

わかっていても罪を犯してしまうのです。

ダメだと理解をしていてもそれをしてしまうのです。

 

これは初めにも書いたように私たちも同じです。

 

わかっているにも関わらずに、

気づけば罪の中にいるのです。

 

今日のメッセージ 罪に負けない力

では私たちはどうすれば良いでしょうか。

どうすれば罪に負けない者として、

生きることができるのでしょうか。

 

そのことをいくつかお話しできると思います。

しかしその中でも今日特に示されたこと、

それは感謝を忘れないことであるということです。

主のくださった恵みをいつも覚えることであります。

 

イスラエルはどうして他の神々を拝み、

罪の中で生きてしまうのでしょうか。

 

それは彼らに与えられた恵みについて、

それを忘れてしまうことになるのです。

 

イスラエル出エジプトをしてから、

荒野の生活の40年間に至るまで、

実に多くの恵みを体験してきました。

 

もし彼らがその恵みをしっかりと覚え、

主に対する感謝の心とともに生きたならば、

他の神々に仕えてしまうことにはならないでしょう。

 

私たちのために主がどれほどの恵みをくださったか、

次々に与えられる奇跡の御わざのゆえに、

イスラエルはいつも感謝をするべきであったのです。

 

その恵みを覚えさせるために、

また感謝を忘れないようにするために、

申命記16章に記録されてあるように、

様々な祭りを行わせるということです。

 

祭りを祝う理由の多くは、

主の恵みを思い起こすためであり、

恵みに感謝を表すためであります。

 

それを忘れないために、

年に7度も祭りを繰り返すということです。

 

しかしそれでも忘れてしまうのです。

それほど弱い存在であることを教えるのです。

 

だから私たちにとって、

毎週教会に集まって捧げる礼拝が、

どれだけ重要かを思わされるのであります。

 

私たちが毎週集まって捧げる礼拝には、

いつもそこにはなにがあるのかということですが、

それはイエスキリストの十字架と復活の恵みであります。

 

私たちが礼拝を捧げるたびに思い起こすことは、

エスキリストの十字架と復活の恵みについてです。

そしてそれに対する感謝を表すのが礼拝であります。

 

私たちは毎週集まるたびに十字架と復活の恵みを覚え、

感謝と賛美を持って仕えるということが大切です。

 

それがすなわち罪に負けない力となるのです。

 

キリストの十字架と復活に対して、

いつも感謝の心を持っていることです。

 

もちろんそのためには週に一度だけではなく、

それぞれが毎日の生活の中である時間を聖別し、

キリストの恵みを覚える時間を持つことであります。

 

もし私たちの心がキリストの恵みを覚え、

感謝と賛美で満ち溢れるようになるならば、

罪はその人にとって脅威とはならないのです。

 

もし私たちが罪の力に次々に負けるのならば、

その原因としてあるのは主への感謝が失われている、

主のくださった恵みと真を忘れていることにあります。

 

今日も私たちが罪に負けない者として生きるために、

キリストのくださった偉大な恵みを覚えることです。

そしてそのことに対する感謝の心を持つことです。

私たちの心が主への感謝と賛美で満ち溢れる時、

罪はこれ以上なんの力も発揮できないということです。

 

www.ljpchurch.net

 

www.youtube.com